これまでもそうだけど、新しい事を始める時、どうしても思う事がある。
それは、これで本当に良いのだろうか?
自分の選択は間違っていないだろうか? これまでも、いろんな事をしてきた。
でも、その都度、やはりどこかで、本当にこれは間違いでは無いだろうか?
と、もう一人の自分が問いかける。
人生は常に、どちらにするのか?を余儀なく、繰り返す選択の連続である。
それは、もちろん、人生が一度しかない事でもあるし、1人の人間が同時に重なるような人生はあり得ないだろう。
どの道を選ぶのか? どの道を選んだら、正解であるのか? 未来なんて物が保証されている訳でもないし、今の自分が求めている物がなんなのか?
先の人生を考えてみても、おそらく、想像している人生は訪れないだろう。
何故か? それが人生だからである。
それが、生きる意味があるのだ。
生きる意味とは何か??
生きていて何を求め、何を望み、何が自分に訪れるのだろうか?
人生は100年時代だと言うけれど、100年だろうと、30年だろうと、50年だろうと、それほどの違いは無いだろう。
人間の肉体的な年齢なんて物はあてにならない。
精神的な時間と意識は、肉体的な年齢とは比例していない。
80歳でも、処女のような意識で居られる女性(おばあさんでもい)だって、珍しいことでもないだろう。
男も、同様に、50歳でも80歳でも、精神的な純粋な精神を持っている人も珍しいことでもない。
それは、特に芸術家などを見ると、顕著に見て取れる。
抽象画家のミロやクレーなどの作品を見れば、そうした肉体的な年齢なんて物は、単なる時間的な物過ぎないことは明らかである。
精神はある意味では、時間軸とは対比する物なんだろうと思う。
私も同じように、定年を迎えてから3年を過ぎているけど、やはり、今でも二十歳の頃と同じ感性が潜んでいて、その感性が常に、何かを選択する基準になっている気もする。
当然だけど、経験値は歳を重ねる毎に世間の常識や慣習、役割を意識することで、行動を制御したり、抑制したり、協調するすることを学ぶことになる。
幼い子供の頃とは違い、自分の意思をコントロールする術を学ぶのだ。
でも、果たして、どうかな? そうした術が本当に人間の純粋な物だろうか?
もちろん、この世間で暮らすには、他人との協調や、常識は必要不可欠だろう。 人間が1人で生きる事が出来ないならば、そうした共存する互いの規律は絶対的な個人の自由や意思を遵守するためにも、必要な制約となるだろう。
これは、何も特別な規約でもない。
地球でただ一人なら、こうした規律なんて物は無用だ。
しかし、一旦、自分以外の誰かと同じ世界で生きる時には、どうしても、不可欠な要素なのである。
で、こんな話はどうでもいいけど、そうそう、人生は不確かであるから、生きるだけの価値があると、以前から繰り返して言って居る事だけど。
私は勿論、理解しているけど、それでも、尚、自分の選択が正しいのか?それとも、誤っているのか?_ と、思案する事には変わりは無い。
だって、人間は何時でも、損をしたくないのである。 損???
何か損で何が得なのか???? これも、考察する必要があるけど、
損とは果たして、お金の問題か? それとも、精神的な問題か?
得とは何か? お金が儲かるのは得で、儲からないのは損なのか?
得とは何か? お金が儲かるのは得で、儲からないのは損なのか?
棚ぼた的にお金が入ってくることは得だろう。 でも、それは本当に幸せを実感する事が出来るだろうか?
今回、新しいギターを購入いた。 ギターなんて、数千円から数百万もするような高級品もある。 でもね、果たして、数千円と数百万のギターの差は何処で決まるのだろう????
これは、絶対的な個人的な感性によるだろう。 どんな物でもそうだけど、それに興味がない場合には、それがどんなに素敵な物だろうと、意味がないのである。 これこそが、人生を豊かにする絶対的な条件だろう。
人生は何かが必要ではない。 なんでも良いのだ。 その物が自分に取って、必要不可欠な要素であることを認識する事だろう。
必要か、不必要かは、全て、その個人の感性が決める事で、間違いなく他人が
理解できるものではない。 10億、20億、30億、さらにもっと。
人の数だけ、人生の価値が違い、だから、生きる意味がそこにある。