岸田首相は内閣改造で人事をある程度一新した。一方で世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と自民議員の接点が相次いで発覚し、内閣支持率は急落。早々に幕引きを図りたい思惑だろう。
自民党と統一教会との癒着が次々と発覚する報道で、自民党の支持率が低下している事を懸念しての改造だと言うことは明らかだ。
旧統一教会の名称変更を容認した経緯もはっきりさせない姿勢はさらに支持低迷の要因となるだろう。 これまでも、安倍内閣では森友加計学園問題の改ざんに関しての詳細も明らかにされていない。 さくらを見る会の経費などの問題もはっきりとされていない。 自民党は正義より党の存続や議員の保身のためにその政治的な権力を振りかざしてきた。
今回の統一教会との関係も同様に、闇雲に隠蔽する心算だろう。 統一教会との関わりがる閣僚を外して、国会での追及を回避する狙いがあるのは明らかだ。
これは政治的な圧力を検察、警察にも及ぼし、さらにはメディアにも圧力を掛けている。 安倍元首相が殺害された日、その数日間は選挙であることもあり、山上容疑者の証言である旧統一教会との関わりに関しても、「ある宗教団体」と言う曖昧な報道であった。 選挙に影響があることは明らかで、その報道を止めていたのも予想出来る。 報道メディアにも圧力を掛けていたのだろう。 選挙が終わって、自民党が大勝した後になってから、ようやく旧統一教会によって破綻した怒りや恨みによって安倍元首相の殺害に至った事を明らかにしたのである。
その後は当然だが、世界平和統一家庭連合の名称は旧統一教会の改名であることや、内容や活動は全く同じであること。 旧統一教会の名称では反社会的な活動であることによって、新規の信者を獲得するには難しさがあることや、霊感商法などの問題も未だに続けられている事なども消すことが出来ないからだろう。 名前を変え、いかにも別の教会であるように思わせる意図は明らかだ。
これはオウム真理教後のアーレフなどと名称を変更している宗教団体も同様だろう。 これは投資詐欺、マルチ商法の詐欺などでも同様な手口である。
主犯格は同一人物で、世間に悪いイメージで報道されると、名称を変更して継続する詐欺集団と同じ手口である。
まっ、いずれにしてもこうした団体や教会などに入信したり、関わったり、ましてや信じるような人間に問題があるのは明らかだ。
いくら悩みや家庭内の問題やその他の仕事上の問題などなど・・・。 人生にはいろんな悩みや行き詰まるような時、投げ出したい時、死にたくなるほどの苦難に遭遇する事もあるだろう。
そうした時にはどうしても何かに縋りつきたい、精神的な支えが欲しい、心を救ってくれるものを求めたり、実際に経済的な支援などの含めて、何かに頼りたい気持ちが沸くのは無理もない。
しかし、少なくとも、精神的な支えや救いは宗教や教団や他人では不可能だ。
何よりも自分自身を変える事が求められる。 なぜなら、心は自身の中にしかなく、その心を変える事で苦難や悩み、恨み、辛みから解放することが出来る。 これは幸福感、満足感、達成感、優越感、劣等感などなどそうした人間の感情は自分自身の中で起こっている現象だからである。
その現象を変える事が出来るのは他人ではなく、自分以外にはあり得ない。
どれほど明日に不安が在ろうと、解決できるのは自分以外には無い。
苦難を乗り越えるには自分の行動や意思や思想である。 そうした努力なしには何事も自分が思っている人生を作るのは不可能である。
自分の人生は自分で築くことが全てである。 これは人との関わりなども含めて、自分をどこまでも信じる事、自分の普遍的な真実、正義を確信する事。
何よりも自己形成を確立することだ。 他人や世間に流されることなく、自分の五感が感じる事を信じる事が出来るかである。
個性とは他人と違っている事ではない。 自分自身を信じることである。
同じ服を着ていても自分に自信がある人はそれだけで輝く物を発している。
宗教が必要ないとは言わないけど、宗教に溺れる者は自分を持たない者である。 自分を持たない者とは、自己確立が出来て居ていない者である。
自己確立が出来ていない者は精神的な不安定を常に抱えていて、自分に自信が持てない状態だ。 その状態は常に何かに不安を持ち、その不安や不満は正義や真実を観る心を持てないのである。
誰かと同じだと安心したり、他人や仲間と同じじゃないと安心できない。
仲間と違っていることに不安や不満を抱く。 そうした精神から生まれるのは他人に対する不満、不服、怒りや恨みや劣等感や不幸だと思い込む心である。
そもそも、他人の心を覗き見ることなどできないのである。
誰が何を考えているのかは誰も分からない。 なのに、自分の事をこうだろうとか人が思っているように妄想する。 これは妄想出あって、現実ではない事をしっかりと認識する事だ。
想像は現実ではない。 妄想は全くの妄想で、現実ではない。 現実は自分が目に見ている物である。 それは、自分の視線であり、自分の思考や思想や意思から成り立つ精神で物事を理解しているのである。
その自身の精神を健全にすることこそが、現実(目に見える物)が正確にさらには、健全に見る事が出来るのである。
さて、今日から4連休である。 今の仕事を初めてから、先日にコロナ濃厚接触者で10日間自宅待機だったことを別にすると、連休としては初めてである。 今年の年末で退職することを決めているので、今年の盆ぐらいはのんびりと過ごそうと決めて、休暇を取った。 午前中に仏壇を清掃して、これから墓参りに行き、花を添えて、墓掃除しようと思う。