2度目の3日目
その日は土曜日 病気の叔母を病院に連れて行く日
R嬢と兄も来てくれることになっていたので、今後の二人の叔母をどうするかについて皆で相談することにした。
叔母宅に行く前に待ち合わせをしてケアマネージャーの方から介護施設についてのなどの説明を受けた。
さしあったては痛みが出てきている叔母の問題。
その前の週に私が来て帰る日のころから「腰がはんぱじゃなく痛い」と言って座るのも歩くのも辛そうだった。
お世話をしている3番叔母から、ポータブルのトイレや紙パンツをいやがって間に合わなく後始末が大変だと聞いていた。
1番叔母もそれをみて「かわいそうに、どうして病院で入院させてくれないの?」となんども言う。
前日、銀行でお金をおろしてきたときも「これでおばちゃんを入院させてあげられる」と安堵していたのだ。
2人暮らしの支えあっている関係は、どちらかが弱くなるとどちらかがしっかりしてくるということはよくあること。
病院には姉と兄が付き添い、私とR嬢は残って1番叔母・3番叔母と話をしていた。
立場的に、ちょっと離れた関係の私は他の人が言いづらい大切な話も この機を除いたらもうないかも・・・と
いろいろ話をする中で「おばさん、このおうちはどうするの?」と私が訊いたら きっぱりと答えた!
「おばさん しっかりしている!すごいねぇ!こういう大切なことはきちんと書いておかなくちゃ!」と言うと
しっかりとノートに書いた!「自分でも書いて封筒に入れておこうと思っていたのよ」と言う。その日はとてもさえていた!!
法的にどうのという以前の問題で、叔母の気持ちを尊重した後始末には必要不可欠なこと。
重要な問題がひとつ解決した。そして、もう一つの問題。
「2番叔母は、ここの家のお墓に入れるの?」 「入れると思うよ」と答えた。
ところで2番叔母の本当の気持ちはどうなのだろう?
むかし、私の家に手伝いに来てくれていたころ「私は子供もいないし迷惑かけたくないから ”献体”しようと思っているの」と言っていたことを思い出した。姉にも、そのように言っていたらしい。
しかし、それも本人が登録していたらできたことかもしれないが家族の承諾も必要なようだし今となれば・・・
病院に付き添っていた姉から電話があり とりあえず入院させてもらえることになった との一報が!
みんな手を叩いて喜び「よかった!よかった!」と涙をながしながら「おじちゃんが守ってくれていたのよ!」と仏壇に手を合わせていた。
入院準備をしたり、サインが必要な書類があったり みんなで手分けしてもやることはたくさんあった。
とりあえずの入院の件も、いろいろあって大変だった。介護・病院・たくさんの書類は R嬢が 全部記帳してくれた。
要介護の認定はまだ先になるらいが、先日2番叔母が初めて利用したホームに1番叔母も週1・2回ディサービスの利用をさせてもらうことにし係の方もみえてくれた。
当のご本人は「私も、いずれはお世話になることになると思うんですけど まだね・・なんせ、この頭がガンコなんですよ」とかおっしゃっている。
3番叔母に一緒に暮らしてほしいと言っているそうだが「毎日一緒にいると、Tmさん(2番)がどんなに大変だったかよくわかる。私は、とても暮らせない」と言っていた。それでも今は自分が付いていてやらなければとがんばっている。
1番叔母に「ひとりになってどうやって暮らしていくの?」と聞くと「〇△さんが、なんでもやってくれるから」と答えたそうだ。
「何でも買ってきてくれるし銀行にだって行ってくれる」 と! 遠くの親戚より近くの他人
お世話になっているご近所さんは、この老人たちにとって どんなにか心強く信頼されている存在だったのだろう。
もう戻ってはこないであろう 例の使途不明金も 犯人探しはやめた。
本人たちのやっていることも、訳のわからないことが多いうえ警察沙汰にでもしたら逆恨みで、なにされるかわからない。
そのほうがもっと怖い。
それにしても、頻繁に出入りしていたご近所さんは 最近叔母の顔がみえないけどどうしたかしらと?訪ねてくることもないというから不思議。
幸い、カードの悪用された件については 明らかに不正使用が認められたので全額口座に返金されるとの連絡が信販会社から入った
認知症の人の財産の管理は 後見人制度 というものがあることは知っている。
しかし、ここ数年のあいだに、すっかり目減りした叔母たちの老後の予備費は、そこに頼むほどのものではなくなっている。
乗りかかった船。あとは、わたしたち身内のサポーターが団結して残された老後を守ってやらなければ。。
セカンドライフの お仕事として多くの方がボランティアをやっている。
看護師さんのように、介護施設で働く方のように・・・大変なお仕事は私にはできないけれど、
せめて身近な年寄りの手助けだけでも力になってやりたいと思う。
叔母たちの暮らしから、これからの私たちの老後に 学び考えさせられることは多かった。
北へ北へとまっすぐ走る 帰りの新幹線の中で さまざまなことに思いを巡らした。