創価学会は、まるごと、日蓮正宗の外護団体として出発した。だから、正宗とは本来、一体であり、独立を企てるとは何事か、不遜な存在が現在の創価だ。
誰が何と言おうと、創価は独立しては教義上、やってはいけない。だから、日蓮大聖人を軽しめ、池田大作を本仏とする、「池田教」を演ずるのだろう。
このフラストレーションは、やがては必ずや、日蓮大聖人という金看板を外して、本当は池田を主人公とした「池田宗」を実現したくて闇に紛れて画策しているのだろう。
この間、たまたまラジオで聖教新聞のコラムを読むラジオを聴いていると、彼らの最近の日蓮大聖人の呼び方が、「大聖人」の冠の字を外された、「日蓮」と、まるで歴史の授業での扱いの如くの、敬称抜きの、冷たい扱いをしている事が多い事に気付いた。
これは、彼らも御本尊をその上人のものは認める日達上人さえ、「日達」「日達法主」と呼び、やがては日達上人さえ、歴史の闇に葬り去り、創価は裏切り、見捨てて、見解を代えて、日顕上人同様、呪い始めるのも時間の問題の気がする。(創価の昭和五十二年路線の経緯から、そう考える)。
やはり、創価の企てた独立は、間違いであった。
創価学会は日蓮正宗の派生団体であり、それ以下でも以上でも無い。元々さしたる教義すら創価は持ち合わせてはいなかった。日蓮正宗とは一蓮托生、日蓮正宗なしではあり得ない宗教が創価学会であった。
それが独立するとは、開いた口が塞がらない。悪いジョーク、何度も言うが、中身のない餃子を食べさせられているような悪夢を見た。もう、救われない新興宗教団体、創価は、その巨体を引っ提げ、どこへ行こうとするのか?誰にも見えず、どうしようとしているのかも、誰にもわからない。