私は以前お寺で、副講頭さんのKさんとお話した時、新入信徒を前にして色々話した。
私が言ったのは、御本尊様をその新入信徒の方は頂かずに、内得信仰を貫かれると言う事で、御本尊様、頂いて置いた方がいいんじゃないのかなあ、私は今の御法主上人猊下様の日如猊下様の御本尊様を大変気に入っていて、拝み甲斐があるヨ、本当は日顕御陰尊猊下様の御本尊様も大好きなんだけども、今はもう御下附叶わないので、残念だけれども、日如猊下様の御筆だってとても立派で達筆であり、カッコいいんだア、と私が言った。
すると、K副講頭さんは、kさんは長い事お習字を習っていらして、そこの門流の先生も仰られているそうなんだけど、人のお文字をそういう好き嫌い、興味本位で、御筆の運ばれ具合などで見てはいけない、ましてや時の御法主上人猊下様の御文字を一般信徒がうんぬんするのは非常に失礼に当たる、と仰られた。
成る程、そういうものか、と合点が行った。
そして、お寺のご住職様の方針でも、まずは内得信仰でもいいから、兎に角お山、静岡県富士宮市にある富士大石寺に詣でて大御本尊様に御目通りするのが先決であり、その後御本尊様を各家庭に祀っても遅くはない、と言う。へー、私は真っ先に「御本尊様、下さい!!」と言ってご住職様に取り成してもらって、御本尊様を御下附頂いたが、そういう流れもあるのね、と納得した。
初めに各家庭にある御本尊様ありき、じゃなくて、まずは大御本尊様にお目通りかあ。成る程、そういう経路もあるのだわ、と思い知った。
そのほうが、改めて御本尊様を頂いた時の感謝・感動と言ったものも大きいだろうねえ、と思い知り、納得した。
私は、創価学会式の、各家庭にある「ニセ本尊」の配布に慣れきって、そんな仕来たりにはこの年まで知らずにいた。へー、と驚くのみ。
K副講頭さんは、日蓮正宗の歴史や創価学会との破門へのいきさつ、一応、お寺に毎日通うのが仕来たりで推奨されるが、御本尊様が家にあれば、自分で都合の良い時にお祈り出来て、いつでも時間調整できるメリットがある事等を力説して、折伏した青年男子とその新しい方は、希望に燃えて帰って行かれた。
その方は、何か悩みを抱えて居られて、一条の光、救い、答えを求めてこの道、日蓮正宗の法門を叩いたのだと言う。若いのに偉いとご住職様もKさんも口々に仰っていた。
若い青年に光あれ、と祈らずには居られない一日となった。