誠に長文の文章、誠に申し訳御座いません。失礼致して居ります。
私は或る講頭に、こんな仕打ちを受けた。いつの時代の人かは、ここでは言及はしない。ただ、仮に、そういう人が居た、かつて、という、私の中では、常に過去の人、の扱いである。そう、読んで欲しい。
それは、私が、生きていても値打ちがない、障碍者としてしか生きられない者の悲哀、人間の屑そのもの、と言った、根底がそう、差別主義者、間違った発想・思想の価値観に根差したもの、悪意に満ちた人、人種特有の見方であった。
そして、お前は、国家のお荷物、国の為には、居てはいけない人間と、とまで罵られた。
これを読めば、うちのお寺でも、誰がそんな発言をしたかは、御存知の方も、中にはいるのかも知れない。
私はじっと耐えた。しかし、この怒り、憤まんやるかたなく、どうしようもなかった。
それが健常者から突き付けられた刃、最後通牒、宣戦布告?!の、のろしだったのか?
その当時は、私も、今よりは、人間が出来ていなかった為、あらゆる手段を使って、抵抗、この場合、正義の闘い(自称)をして、闘っていたつもりであった。
しかし、何とも、その人間のいいように振り回されて、自分が身動きが取れなくなる気が、気ではない、実感として、苦しくなった来た。
私は、自分で、自分が悪事を為すと、それが何か、癖なのか何なのか、自分で自分が苦しくなる、見苦しい事を人や家族等にすると、非常に苦しくなり、自分で実感できる、特技?!のようなものがある。
これが為に、我が身が救われた出来事も、何回となく、人生上、実際に、ある。
こういった感覚を、その人間が、私と同じようには、持ってはいない、持ち合わせていないこの事実。その不思議。
そいつの方が、それら常識性に欠けた、まるで不具者の扱いをされてもおかしくはない。
本当に、アンタは、健常者なのか、と問いたくもなる。隠れ不具者。可哀想な人種。
たまたまの、ラッキーな偶然の産物で、何とか社会生活が一般社会において営めているに過ぎない一種の人種、家系。
ただ、人生上、常職にありつけて、会社の社畜となり、今は、悠々自適かは知らぬが、この人間の最期が見ものだ。
どういった、仏罰、法罰、神罰、業罰、妙罰、深い罪業を、罰当たりなその男は、いま、非常に重い深い苦しむ事になる罪業共を、今ひたすらに、この男は、積んでゆく(いる)、積み上げている、最中なのだなー、とね。
思いましたよ。いやー、可哀想、可哀想……。思わず、皮肉の意味で、同情するわ。
正に、桑田佳祐の「すべての歌に懺悔しな!!」の歌の通りである。大学出たってバカだから常識なんかは通じねえ、の歌詞、その他の文句の通り。
だから、この場合、私は用心に用心を重ね、余り、その人には出来るだけ近づかないようにして、要注意して、最低限の付き合いに留めた。
そうやって、その本人自身も語っていたが、自身がお寺で、折伏主になるのには何人もの人を相談して、自分が勧誘を掛けて、成ってもらったが、誰一人、自分以外は、だーれも、信心している人は、皆無なんだと。
だから、誰一人として、折伏した人全員がお寺にはもう来てくれてはいない。全然、誰一人も…。
産みっぱなしで育てず、「育成」が要するに、下手なのである。
「育成」なんか、めんどくさくって、後回し、常にその状態なのであろう。自分の事で手一杯…。
その罪業の方が、とてつもなく、業が深いと、なぜそなたは、思い悟れぬのか。愚か者よ。
それは、その人に、信用、信頼性が、全くない、私に対しての、人をモノでも扱うが如きの、そんな存在感の無さ、まるで、マテリアリズムの、物質主義者、唯物論者、詰まりは、共産主義者の様な、社会主義者じみた、まるで発想、想像力の貧困さ、貧しさ、である。
常に、その男が、暴力的・暴力主義にも通底し、感ずる。大体、すぐ手が出るし。
その理不尽な男は、刑法の、暴力、脅迫罪、恐喝罪、詐欺罪、ストーカー規制法等々の法に触れて、やがては捕まるんではないのか?
有りもしない幻影にさまよう者なのだ。お前はな。
韓国の元統一教会の文鮮明、鶴子教祖夫妻、亡者たちの如くに。北朝鮮の金一家を支持し続けている者たちの如くに。
そんな人に従う必要など、どこにもない。私は、自活・自立して行こうと、今は思い始めて居り、いつまでも福祉のお世話にはなっては居られないと、今、盛んに、面接活動等に、精を出している。
でも、言っておくが、この阿呆な人間にそそのかされて、そうなったのではない。
一応、発奮材料にはなったが、それが全てではない。
とにかく嫌なのだ。何もかも、福祉福祉という、狭い環境下、監視下に置かれている、この自由の無さが、風通しの悪さが、イヤなだけなのだ。
とにかく、同じ土俵では、二度と闘わない。戦前の日本は、大日本帝国は、アメリカ帝国に勝とうと、同じ土俵、詰まりは、真珠湾攻撃が元で、信用を全世界から無くして、戦中戦後の失敗、詰まりは、第二次世界大戦、太平洋戦争の戦禍による、二度にわたる原爆投下、各地の本土爆撃による、多数の戦死者を出して、敗戦を迎えた。
同じ日本国に於いて、それら歴史から学ばない者は、バカである。バカとしか言いようがない。だから、私は、そんな奇襲などと言う、卑怯な真似、手は使わない。
何を使うか?頭を使うのである。これが、智慧の力だ。知恵を精一杯使えば、何かは生み出せる。そういう、自分には自信というものがある。
ノウハウはないが、しかし、智慧も無尽蔵には出ては来ないが、困った時の神頼み、神様じゃないが、我々日蓮正宗信徒には、幸い、「御本尊様」という、「仏様」。力強い、幸福を生み出す素、源泉がある。
これを使う。簡単な事だ。ただ一心になって拝む。一意専心の気持ちで、ひたぶるになって、ただ一心に拝む。これだけでいい。
これに気付けただけでも、この六年間の間、この日蓮正宗の信心を続けていて、誠に良かった、と判断出来得る。
私にとっては、敵と言えば、想い出せば、その人ぐらいかな。後はみんな、心優しい人、方たちばかりである。
中には、積極的に、私に味方をしてくれて、勝手連というか、応援団的に、私に対して、実に良くしてくれる人も中にはいる。
そうした人たちを、今は私は、非常のお寺の中では、立場が狭く、弱い立場なんだが、ヨチヨチ歩き成りに、困っている人を見ると、自然と助けて下さる方も、そういった奇特な方も、中には確実に居られるのである。
どんどん、自分の中にある、不思議な吸引力で、そういった、尊い仏子をイジメたらどういう事になるか、因果の理法とは、誠に怖ろしいものだと言う事を、今は、その方には早く知って頂きたい、言葉の表面をなぞるのではなく、それこそ、日蓮正宗信徒ならば誰もが知る、「文底秘沈の大法」で。
尚、この文章は、どんなことがあっても、絶対に撤回・訂正はしない。言論封殺弾圧には、決して従わない。どんな権力を使われたとしても。絶対に従わない。ここに、非暴力不服従を高らかに宣言し、宣誓する。ペンは剣よりも強しだ。
それが例え、私の信ずる宗門がそうしろ、と仮に命じたとしても。ここでは何も、宗門が出てくる筋合い、話などは、何もしてはいない。私を騙すな。
非道不当な権力を使う、それが出来たら、言論の自由がなくなる。言論の自由を持ち出すとは、お前も古いな、とか言われそうだが、現今、憲法改正を目論む自民などでは、この言論自由を、封殺するのでは、ありとあらゆる自由を、権威権力でもって、押さえつけよう、そんなかまびすしい議論もあるんだろうが、心配は要らない。
第一、自民党の議員も、国民の一人一人だ。その国民の中から出て来た人たちが、果たして自分で自分の首を絞める真似をするだろうか?天に唾を吐く行為と成らないだろうか。少なくとも、頭の良い人達なのだろうからそこの所は、信頼、信用している。
幾ら権力者だからと言って、北朝鮮のように、いつまでも家族の家系の血族一族一党が、権力を牛耳る事は許されざる事だ。そうなったら、早晩、日本も終わる。
そうならない為に、改憲憲法草案には、ちゃんと国民の基本的人権の尊重、今言った、言論の自由はもちろん入れる。そして、議員数の削減、今の三分の一位が丁度良い。アメリカが国土が何倍も有り、国民は日本の三倍も人口がいるのに、議員は日本の方が何倍にも増して、多過ぎる位、日本の国会議員、県市町村議会議員の数は多すぎる程、腐る程居過ぎる。これをまずは是正。
それと、議員特権、不逮捕特権にしろ、文通費にしろ、JRただ乗りにしろ、議員宿舎の一等地にあるのに、全部タダの事務所、秘書官を三人だか何人だか議員一人に付けられるこれもタダ、それ以外にも、多数の議員特権がある。
こんなうま味があるから、岸田親子も、政治屋家業を辞められない訳だ。まずはこれら、特権の即廃止を、これらは本来、憲法で謳わなくても、実際の法律の条文、普通の法律で決めればよいものだが、念には念を入れて、これも勿論盛り込む、憲法改正案に。
それから、プライバシーの権利擁護の条文、環境権の思想の優先を盛り込む。
こう言った事共を書いて来て思っているのは、何か、前述の、講頭氏、例えば、その意見は、私の意見は、皆さんここで無視してもらっても一向に構わないし、その読者達とはお別れだが、若いときか何かに、例えば、ドイツナチスの、国家社会主義ドイツ労働者党の党首、総統まで上り詰めた、反民主主義・反共産主義・反ユダヤ主義の下、一党独裁体制を敷いた、ファシズム政党、の政権のトップ、アドルフ・ヒトラーの著作「我が闘争」などを、何かの虫のいたずらで、読みはしなかったか、と問いたい。
そうでなければ、あのような無慈悲な、ナチスドイツの、非人道的な「優生思想」のような、あんな残酷な事共が言えるだろうか?私は言えないと思う。一頁でも、読まない限りに於いては。
人間だれしも、権力を握りたいと、強く心に願う時もあろう。特に若い時期は無力感で特に。
そういった時に、人は、今問題になっている、自民党と友好関係にある、統一教会や、創価学会、共産党、などの「圧力団体」と手を結ぼうと、そういう甘い罠が、特に大学生の、多感な時期には、魔の誘いが有り得る。
これが非常にコワい。私の母は、戸田城聖先生がまだ御健在だった頃の入信であり、まだ池田大作氏など、大蔵商事で借金取りをしていた位の頃の時期だ。
だから、創価学会もまだ常識があり、優しさ慈悲が溢れて居た頃だ。
しかしこれが、昭和三十年代半ばの、戸田先生がなくなって、会長職不在の二年間を経て、池田氏が登場する、全ての権力闘争に打ち勝って。
そうなると、池田氏の為すがまま、やりたい放題となる。自分が王様のように。
そうして、自分が権力者に向いていると思い上がり、遂には「総体革命」成る、おバカな思想を練り上げる事に血道を上げる。詰まりは、自身が、日本国、乃至は、創価王国という独立国家を作りその王、なり、総理大臣になる、大統領になる、天下を取る、との執念、妄想を逞しくする。一種の、ここまで来ると、妄想狂、物狂い、である。
そんな彼の、池田氏の唯一の生涯の愛読書が、日蓮大聖人様の「御書」などでは全然なくて、悪名高き、ナチスドイツの総統総裁、アドルフヒトラーの著書「我が闘争」であった事は、意外と知られてはいない。
何とも孤独な半生を送り権力を持ちたかった人がいかにも愛しそうな、貧しい読書の質、こんなにも貧しい、さもしいハッキリ言って寒々しい本しか彼の手元には、本当に果たしてなかったのであろうか?池田氏の評判、ガタ落ち、である。元々が、創価は、謀略団体ではあるので、当然の成り行きっちゃあ、成り行きなんだが…。
そこには、おそらく、ナチスによる、非道な、人権蹂躙、女子供なんてどうでもいい、ユダヤ人は敵だ、との敵愾心が、人を呪うような事共が、ドイツ語特有の、雄弁性あふれる、自由闊達さ、そこには自由などはどこにもないのであるが、闊達なだけの、実に人を小馬鹿にした、小細工の過ぎた、雄弁家に違いないが、ヒトラーの小者なんだけれども、自在に自分をプロパガンダ放送で、雄大、豪壮で、尊大に見せるのに成功した訳だ。それは一種の、からくり、一人ピエロの道化に過ぎぬ。
そこに日本やイタリアと同盟を結ぶ、日独伊三国同盟である。
これが悪名高き、枢軸国であり、米英仏中ソ、の連合国と睨みを利かして、開戦と成り、後はお馴染み、悪の枢軸、日独伊の敗戦で戦争は終結する。
この時の、ナチスは、人々に、「優生思想」を植え付けた。いわゆる、障碍者や、外国人、高齢者、女子供等々の、世の中で一番弱い立場に在る人々を、徹底的に排除・差別視して、社会の外に放り投げた。
言うなれば、合法的な殺人。殺戮。殺害に及んだ。大虐殺である。人権などどこにも、ない。全くない世界なのだ。
それが、今は、記念館と成っている、「アウシュビッツ強制収容所」での、ユダヤ人、各種障碍者等々の、虐殺の歴史が、それら悲惨な出来事を物語る。
それに、その人は該当し、その著作を読まなければ、あんな芸当、障碍者差別は容易には、しない筈だ。必ず読んだ事がある、と私は睨んでいる。これはあくまでも、私の勘だ。外れる事も有ろう。人間、コンピュータでもないのだから。
しかし、人を差別が、それがあれほどかように、簡単に出来てしまう所が、何となく、臭い、腐った魚の匂いがする、プーンと。
今では、中々、紙の「我が闘争」は手に入らないらしい。昔は、その人も昔の、今では六十を過ぎた人種だから、容易に読めたのかも知れぬ。
自分では幾らでも言い繕って、そんな変な本、読んだ事など無い、等と言い張る事が出来得るであろう。誤魔化しは幾らでも利く。その人も、バカではないであろうから。
そして、しかし人は言った事実では、全ては、全く分からない。ロールシャッハテスト検査や心理テストをやっても、見事それらの検査を、異常者なのに潜り抜けて来る猛者もいるにはいる。
要は、それだけの、つわものなのかどうか?どうせ、アドルフヒトラーも、元はと言えば、画家を目指した貧しい失業者青年からスタートして、どういう訳か、何とか政治家までやっとたどり着けて一時期だけ、ぽっと出で、出世出来て、最後は、その死に方は、ドイツ敗戦が濃厚となる中での、愛人とのピストル自殺で二人で果てるという、情けない死に方、生き方での人生の幕の下ろし方だった。
実は最大限に見積もって、自身が小物、哀れな失業者の成れの果て。人生のお荷物は、実際の所、この男が最大限の、お荷物の、情けないオヤジ風情、チョビヒゲ野郎の、不始末、ふしだらな、こんな最低野郎に、世界は振り回されたのである。
それが、ドイツ帝国を中心に、ヨーロッパ、世界を支配下に置こうとした。
そんな一時期、不幸な時期が、世界史上には、稀なレアケースとして、あった。そんな、破仏法とも言え得る思想に、心惹かれる、権力を握りたくて、でも握れないでうずうずしている、哀れな人種、特に若者が、現代現在でもいるかと思うと、頭が痛い。歴史は繰り返す、ともいうし。何か怖い感じがする。
だから、こればかりは、人の事だから、余り迂闊には言えない。それが、どんな運命が待とうが、その人の宿業因縁に基づくものであり、他人がどうこうできない、言わば、宿命だ。勿論、縁もある。良縁、悪縁…。
しかし、何のために日蓮正宗の御教えがあるのか。宿命転換の、転重軽受の御教えである。どんな人にも、例えあの、巨魁、極悪人、池田大作氏にも、今も(おそらく生きていれば)仏性が眠っているのだ。
だから今は、その人にも、じっと頭を冷やして考える時間を与えて、しっかりと休養を取り、働くばかりが能じゃない、時にはしっかりと休んで、頭を休ませ体を酷使せず休んでからに、良ーくと、自分の所業を反省の時を待つ他はない。
その方には、『論語』の、出版社の『三省堂』の社名店名の元となった、我日に三度我が身を省みる、の言葉を送り、この文の掉尾を飾りたい。
尚、ここで述べた事は、寸分の狂いも無く、全て、真実である。リアリティのある、ドキュメンタリー、事実の上での、全てが本当、本物のお話である事を、付記させて頂く。ウソっぱちも誇張も少しもだにない。だから、これ以上の、誰にも、自分が名乗って来て、申し開きしようが、私はどこ吹く風、あなた誰?で終わろうというものである。あくまでも白を切る。誰とも特定はおよそできないであろう。それがこの文章群の持ち味、上手い所、である。我ながら、天晴れ、である。自分で自分を褒める事も、必要な事。マラソンの有森裕子さん選手を想い出しますねえ。自分で自分を褒めてあげたい、と。ただでさえ私は、自罰主義の、最たる人物たる故。
しかし、この文上文底の、この対象者が、これだけ言われて恥とも思わぬ、気付かない、気付けない、張本人は、そうだとすれば、ただ単に、厚顔無恥か、ただの厚かましい人間かの、そのどちらか一方である。そうと断ずる以外、有り得ない。ただの、やかましいドラ。(文学書、文学作品としての、「聖書」より)
仕方、ありませんな。仏法の厳たる因果律、『還着於本人』と成り、この張本人へと戻ってゆきますように。高みの見物と、俯瞰の目線で、洒落込みましょうか。
一切は、自己責任、自業自得の世界。天網恢恢疎にして漏らさず、の気概。
以上。よしなに。wainai
読み応えのある文章でしたね。そして、何よりも冷静な文体になっていたことを好ましく思いました。
あなたの信心の深化に敬意を表したいと思います。
もう、でも、私は、出来るだけ、出来得る限りに於いて、
人との争闘、争い事には、もう嫌だ、沢山だ、との、
唾棄すべき、嫌味を感じ、自身、それに付き、
もう、懲りて来ていて、
それは、私も人生を長く生きて来ていますから、
学ぶ、学習する、した、訳です。
よって、今申した通り、
余計な、無用な、争い事は二度と御免だ、
そういう事になれば、
二度と御免故、その場から立ち去り、潔く、逃げ去ってでも、
非暴力不服従を誓い、果たす所存で御座います。
これは、元々、仏教に内在した教えであり、
ヒンズー教徒のガンジーなどは、その亜流、
彼は、仏教的成るものから、盗み取ったのです。
こう言う輩を「法盗人」「盗人猛々しい」と申します。
返事少し、若干、遅くなりました事を、お詫び申し上げます。コメント来ていたのを、気付きませんでした。
以上。よしなに。wainai