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私の歌の好み、安積高校生時代の思い出、イヤなコメディー路線・演劇部関連。長文失礼。

2023年03月06日 10時40分58秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 以下、大変な長文を書き散らして居ります。お時間がある方は、お読みくださると、誠にうれしいです。


 私の歌の好みは、当時の、発売当初のままの、原盤、売り出し始めの、本当の、後世のカバーじゃなく、生まれたままの、何ら、手を加えていない作品が、大好きだ。
 これは、好みの問題であり、その、後世のカバーがどうしても好き、という方もいるかも知れない。しかし、昭和の頃の、原曲を、私はどうしても聞きたい。
 本人も、頑張って、年齢的な寄る年波に気遣いながら、後世、年による衰えを気にしながら、一所懸命になって、スタジオで再録音、等、それもまた、その曲を何度も聴いた者にとっては、アレンジが他に施されて、それはそれでいいだろうとは思う。
 例えば、有名なアーティストで、英国イギリスの有名なロックバンド、「ザ・ビートルズ」が、再デビューし、再録音で、往年の、今まで出して来た録音盤を、再録音を施して、原盤のCDやダウンロードの外に、又演奏し直すんならば、まだ分かり、理解は出来る。ビートルズマニアは、垂涎の、それら楽曲を、大喜びで迎えるであろう。
 しかし、御存知のように、四人のメンバーの内、最初にジョンレノンが凶弾に倒れ、次いで、ジョージハリスンが鬼籍に入った。
 今、残っているのが、リンゴスターとポールマッカートニー、この二人が、何とか現代まで、当時の生き証人として、生き残ってくれている。

 これら、大御所、ともいえる、それら楽曲が、超有名曲の人だけが、カバーを出す権利、権限がある、と私は、私個人はですよ、思う訳です。
 それは、音楽界の事情は良くは知らないが、いわゆる、一発屋、一曲しかヒット曲が無いのに、これまた、カバーアルバムなどを安易に出してしまう。
 これは、余程の、その歌手への、よっぽど大好きだったファンではあり得る、喜んで迎えるかも知れないが、事は、一発屋、である。
 その歌手も、余程、生活に困っているのかも知れないし、それは判らない。
 しかし、当時の初々しい発表曲、青春時代を共に過ごした、当時の世代にとっては、過去を想い出せる、最高の思い出曲。逆に、今、平成令和時代の若い世代で、これから昭和歌謡に触れよう、等と思う者にとっても、これら、カバーアルバム、後世に発表したまがい物の存在は、正に地雷源。初期の初々しい、瑞々しい、青春歌謡が、これは台無しじゃないか、と怒りさえ、覚える事がある。
 まあ、いわゆる、再度、カバーアルバムとして、発表が許され得るのは、昭和の大家、スーパースターの、石原裕次郎、島倉千代子、井上陽水、永ちゃんの、矢沢永吉さん、この他、誰かがいるだろうが、その他は聞きたくもない。当時の、自身の若い青春時代が汚されてしまったようで、私は聞きたくは絶対にない、全くに。
 この点、見習うべき点、人、人物がいる。昭和の往年の、一発屋、と言っては失礼だが、この一曲で、かなりのヒットを飛ばした名歌手「平浩二」さん、その人である。ヒット曲名は「バス・ストップ」という、一度聴いたら、忘れられない、昭和の名曲、名作である。感動的で、つい、私の眼鏡も涙で曇る。それ程の、大作、大佳曲なのである。
 彼の、歌を歌う時の極意を、私はテレビかラジオで見たか聞いた事がある。
 彼が一番に、全国のコンサートで(どさ周り)各地を回る時、気を付けている事が、たった一つある。
 それは、彼は、昭和の頃の、歌い方、当初の、レコード盤のまま、その時の、作家先生に習った当時のままに、一切アレンジを付けずに、元曲の雰囲気を崩さずに、この曲を歌い切っているんだと、マスコミ媒体で語っていた。
 これには、私は、その彼のこの楽曲への本気度、立派な、正に、聴取者、視聴者が期待していた通りの、セオリー、道理の体現者として、私はそれを聴いた後は、ただこの、平浩二さんを、立派な、歌手の鑑として、応援したくて、心が一杯だった。
 しかし、これは裏話かも知れないが、こんな話がある。
 うちの母が、平成当時、確か栃木県内の、りんどう湖ファミリー牧場そばに立つホテルか、この郡山市内の、ホテルハマツだか、磐梯熱海温泉内にあるホテル旅館であったか、それは今となっては不明だが、母が言うには、この「平浩二」さんが、その夜のディナーショーに来ていた。母は、当時、バンケットの、仲居派遣の事務所所属の「仲居業」を仕事の生業としていた。
 その仕事も、当時、やってはいけない事だが、学歴を少し弄った。
 それは、郡山の地に於いても、「東京都立戸山高校卒」という、東京で、こんな有名で頭がいい、という触れ込みで、ただ単に、それは自慢にもならずに、貴女ならば、もっと他に、これだけの学歴があるんならば、もっと良い所があるでしょう、と言われるのが落ちであり、母の美容師になる時の、美容師学校や、おそらく神奈川県の美容師免許取得の際は、これは本当の学歴、都立戸山、と出したが、他は知らず、絶対に名乗らなかったらしい。本校、戸山の名誉を考えたのか、自分からは、決して、引けらかしたりはしなかった。
 そこが、奥ゆかしいというかなんというか、当時の母の履歴書が出て来た時があったが、それには、「私立フェリス女学院」などと書いてあり、かろうじて、小学校、中学校が、本当に名乗った履歴書であった。
 でも決して、郡山市地元の、安女、郡女、郡商事務科、等々とは、幾ら母でも、いつかはバレるので、決して郡山市地元高は名乗らなかった。
 とにかく、学歴が高い、というか、有名校出身者、例えば、東京都にある、開成高校という、現在、東大入学者を数多く輩出する高校出身者にとり、高卒で終わった場合、入る会社はそれだけで限られてくる。
 だから、それは東大も同じであり、最近、東京大学卒業出身者だか、どこの学校だか忘れたが、それが、大学出、というのを敢えて隠して、高卒資格を敢えて名乗り、横浜圏内の切符切りか何かの、現役駅員と成りはしたが、それが、大学卒、東大だか京大だかが、バレて、懲戒免職だか減給何か月だか、何だか、大変な事態を招いた出来事があった。
 私は、これは不可抗力、その、学歴詐称、この場合、自分を低く見せて、やっと就職口に辿り着いた、その、本当は東大生だった?方の肩を持ちたい。
 私も、これは学歴詐称ではないが、福島県立安積高校入学を果たした私だが、一度と言っていい位、私の履歴書には、一回たりとも、安積入学、とは、書かなかった。書いた覚えも、全くない。
 これは、当時の、その安積に居た或る国語教師に対する逆恨みと、その当時のその学校に対する、私の恨みつらみからである。
 でも、時間が経つと、恨みなど見事に消え去ってしまう。あんなに憎かった、あの先生も、その生徒達も、私がいた母校の学校の佇まいが、私にあの当時の郷愁を抱かせ、非常に今と成っては、懐かしさを感じ、母校の為に一肌もふた肌も脱いでやろうと思い立つまでに自身、人間的に、退化?成長を遂げた。もう、ツイジェン、崔健の歌(その昔、私は中国ロックに凝り、ツイジェンという、その中国政府に対して批判的な歌詞が仇となり、中共政府に迫害され、目を付けられていたアーティストの曲が、毎日聴く程、大好きであったが、或る時、それを、売りに出す、という暴挙に出て、そのCDは、もううちにはない。)で、「隠蔽はやめた」という曲があった。
 その歌詞の内容は、忘れてしまったが、とにかく、隠蔽は良くない、隠し事は良くない、今日からは「隠蔽は辞めて」綺麗さっぱり、正直に生きてゆく、正直者で行こう、という、ツイジェンの、決意表明の様な、ロックのダンサブルな曲等々や、静かで内省的な音楽、等々。
 このCDは、初発売というか、彼の確かデビュー作品ではあったが、今の所、アマゾンで観ても、とても高値で取引されているのを以前、HPで観て、再所有購入は諦めた。せめて、カセットテープで録音して置けば。再発売してくれれば、定価であっても、絶対買う。ツイジェン(崔健)を。
 とにかく、今の私は、各所各種、面接会場に於いても、自己の成り行き、学歴職歴等々を、ウソ、それこそ、「隠蔽はやめた」であり、これからは、真っ正直に、ウソ偽りなく、包み隠さずにちゃんと堂々と、「安高入学」の一文をハッキリと入れて、これを逆に逆手に取って、自身の武器にして、自分のトレードマークにこそして、この就職難、景気悪化、物価高の世を乗り切りたいとぞ思う。

 閑話休題。それはさておき。
 そうそう、最初に話は戻して、その、当時、仲居をしていた母たち、ホテル従業員たちの元に、その、「平浩二さん」が、これ見よがしに近づいて来て、一言、言った。
 「ねえ、おねえさんたちー、私の、ここで売っている、CDを買って行ってよ。何割引きか、特別に安くしてあげるからさー。お願いだからさー」
 と。
 それに対して、母たち、仲居一同は、一度はその、平浩二さんの前に集まっていたが、ディナーショーで忙しいのも手伝って、皆、クモの子を散らすが如く、その場から逃げるように自分の職分に帰って行った、という。
 誰一人、そんな訳の分からない、人が歌ってるだけのCDなどは、その会場では、仲居さん達は、お金なんかも、事務所から食券を渡されているので、お金サイフなど、持ち込んでいる人も珍しい皆無な感じで、何より、そこは仲居さん達にとっては、働く場所、仕事の主戦場であり、何もこんな人に買え!CD買え!何て言われる筋合いなんて、一向に無いのである。
 その話を、その日、私が当時、母不在の家を守っていて、そんな、有名人に逢った事が皆無と言っていい、有名人は、少しは私も少ないがある、の私には、そんな一発屋でも、珍しくて、うらやましくって、自分だったら、お金が少しの、ギリギリのサイフだったとしても、絶対に買った、というと、母は、「あら、驚いた。あんな人は、ただのドサ周りで来ていて、ただの冷やかし半分で、最初から、売れるとも思いもしない、売れたら儲けもん、位の、冗談ばっかり言ってたし、何より、その場のホテルの会場の音響、音量が、余りに大音量、バカみたいに大音響でコンサートを開いていて、私なんか、持ってたティッシュペーパーで即席の耳栓を作って、その場でお客の御給仕をしていた位なのよ!あんな非常識な、歌手、大音量の酷い音の会場で、自分一人でいい気になって…。だから、誰だって、私ら仲居の人も、結構反感持って見ていた人も多いと思う。だから、買うだけ損なのよ。お金がその時あろうがなかろうが。使わないのは、こっちの自由でしょ」
 と、こういう話であった。
 後、余談だが、ホテルハマツで、何と、佐藤栄佐久、元福島県知事とも、母は、たまたま、同じエレベーター内で出くわして、一緒に、同じ佐藤栄佐久県知事が向かう会場へと、本当に、出逢いとは恐ろしいもので、その会場内を、母は、バンケットの仲居サービス係として、その場で待機したり、お飲み物を出したりしていたという。その日に、逢った、と母から直接、聞いた。
 そして、佐藤知事は、良く出来た方で、ちっとも、お酒を勧められても、軽く一口くらい、コップに口を付けた位にして、早々と、その場を後に為された、と言う。母は、その様子を、遠くから、一心になって、息子の私が母校が同じ安高卒で、東京大学法学部を卒業して、自由民主党参議院議員にまでなり、後にいまゆった、福島県知事ともなった佐藤知事を、心から吟味し、その人となりを、今一度確かめるが如くに、母の審美眼に叶う人なのかと、母なりにその人を詳しく確かめるが如くに、見詰めていた。そして、やっぱり、人となりが立派だったと、母は佐藤知事を褒め称えていた。お酒に酔い痴れ、泥酔する醜態などは決して見せずに、キッパリと、お酒をグラスに一口、付けるか付けない内に、非常に忙しいんだろう、もう、次の場へと、移動してゆく佐藤知事。立派だと、母は語っていた。
 だから、東日本大震災津波原発事故の時も、佐藤知事が再評価され始まった時に、母は一言「やっぱりね」というのみで、震災の大被害止まない我が福島県の成り行きを、当時の母と私は、原発地域の避難者達や、放射能汚染で皆が苦しむ中を、私ら親子は、出来るだけ平静を装い、佐藤知事に密かに喝采、応援の声を惜しまずに、ただ、その無念の知事交代劇、裁判敗訴の報を聞きつつ、同情の念慮を禁じ得なかった。
 その場には、当時、郡山市長だった、藤森英二市長も臨席?(確か、私の記憶違いでなければ)していたという。藤森市長は気さくで、仲居の立場の、母や他の同僚たちに、一人一人、握手をしてもてなしたと言う。
 しかし、そんなありていのサービス?に感動する程、母は愚かでは全く無く、母は意見が一味、違った。母は、美容師学校時代から、「一般公衆衛生学」などの、難しそうな、ウィルスとかばい菌とかの、一応、今のコロナ禍もおんなじだが、これら学問をみっちりと身に着け、美容師試験(国家資格の神奈川県)で合格するくらい、人一倍、衛生観念には、気を使った。
 その中で、あんなに、あの藤森とか言う人は、簡単に、女の人でも何でも、手を握り、握手を求めて来た。私(母)は疑ったね。これは、この人は、衛生観念が一切ない人なんだと。だから、次の選挙は、私は一つ、考える所があって、若しかしたら、あの市長には、入れないかも知れない。対抗馬が出て来てくれたらいいんだけれど。又、共産党かねえ。じゃあ、しょうがないわね。
 これが、政治家編。
 あとは、又、芸能人篇。
 クリスマスコンサートだか何だかで、郡山市の、これ又、虎丸、駅からも近い、距離のホテルで、今言った、「ホテルハマツ」にて、今度は立て続けに、「郷ひろみ」と「松田聖子」が何故か、その年の年末になり、郡山のハマツに、来ていた。同時ではない。別々に。
 母は、いつも、それら、そんな芸能人を見ても、ミーハーな私のようには、一人で感動したり、サインをもらいたい、などの行為を常に戒める、風な、考えの持ち主であり、結構、母の昔の写真等々を見るに、結構な美人さんなのだ、昔の母は。自分の家の母を持ち上げる積りも毛頭ないが、この、写真アルバムを、皆、特に、福祉関係者に見せると、十中八九、皆、声を揃えて、「美人、美人さんだあ」「三沢あけみに、本当に似ている」等々、ホントに褒められた記憶しかない。うちの父は、あんまりに薄ぼんやりした、とぼけた、東北人特有の、目の細い人種、本宮町(現本宮市)出身の田舎者と、母は、大都会の東京都出身であり、元々、二人は、学歴も違うし、美女と野獣そのままの出会いであったのだ。
 とにかく、母は、それら芸能人が、例え身近に近寄って来たとしても、一切我関知せず、とのプライド、誇り高き人物であり、一歩間違えば、私(母)だって、それら、映画界、テレビ界、芸能界の側に居たかもしれない、そういう存在、自分に相当な自信を、母は持っていた。才色兼備でもあった。
 だから、話を段々元に戻すと、私は、子供だから、わ~キャー言って、そんな、芸能人、特にここでは、郷ひろみや、松田聖子が、この時、郡山市にディナーショーを行なった。
 これだったならば、私(wainai123753)がそこの、ウエイターか何かを任せられれば必ず、その職権、地位を利用してまでも、最低限の、せめて、「サイン」位は欲しい、とはなる。私は彼ら彼女らの、当時、カセットテープだか何だかには、彼彼女の楽曲が、現に録音物が、私のコレクションには、当然、所有して、あるんだもの。
 それが浅はかだ、と母はのたまう。母が言うには、そんなのには、決して動じてはいけない。自分がまかり間違って、いざ、時代の、激動の時代は、何が起こるかは、全くこれは、世人には判らない。あんただって、私だって、いつ、これは、著作物成り、それら、映画、テレビ、放送関係の、オーディションや、試験、テストに合格せねばならず、私などはそんなのは決して嫌で考えた事も一度も無い。アマチュアリズムで結構、と思っているが。しかし、母は人はどこで、どこの世界に於いて、自分自身が、いつ取り立てられて、立身出世の機会が、巡り巡って来るかは、誰にも判らない。それが、人生の面白さ、怖ろしさでもある。だから、アンタ(私の事)も、いつでも、出世の機会が巡り巡って来ても、おかしくはない、態度と、気概を持って、いつも生きている、生きてゆくべきだ、とのたもう。これは、母子(おやこ)の間で交わされた、約束事である。
 時代が違えば、多分、親子の契りで、私は、維新の志士達のように、血判状でも、書いて親に渡す位の芸当が、必要だったのかも知れない。

 しかし、これも母は、高校時代に一端、話を戻すが、当時、安積高校在学在籍中、一年生になったばかりの、春四月の、新入生歓迎会いわゆる、新入生レクリエーションの時に、私を、劇団員、というか、どうしても、母のたっての希望で、私を、同校演劇部に入れたがっていて、盛んに勧めていた。母は、私に、難題を吹っ掛けて来た。と思った一瞬間が、確実に、私の心の一端を占めせしめた。
 それに乗る形で、私は何とも嫌で嫌でしょうがなかったが、一応、その、演劇部の門を叩いた。
 私は、当時から恥ずかしがり屋であり、あんまり、人前で演劇などは、演劇なんてのは、河原乞食の好き好んでやる事、と相場が決まっていると思い込み、その時は、何故母がここまで、私の嫌がる事を無理強いしたかが、考え及ばなかった。
 その時の、新入生歓迎会のレクリエーションも、酷いものだった。当時の安積の演劇部の指向性はと言えば、何と、私が最もやりたくない、大嫌いだった「コメディー路線」「お笑い路線」。
 私は、見るテレビのドラマでも、学園恋愛ドラマでは、純愛物や、リアリティーあふれるもの、もっとシリアスで、劇的な最期を迎えるような、感動物、もっと、人を涙流させる、しかし、お涙頂戴ではない、本当に真剣味あふれた、そんな不真面目な安高のコメディー路線の演劇は、常に私にとって唾棄すべき対象であった。誰が、そんな、皆から常に笑われる存在、そんな道化師ピエロの様な、一人悦に入った、そんなふざけた、人をバカにした、おかしな事が人前で出来るかと言う、これは、私の沽券に関わる、プライド、誇りに関する、範疇の問題ともかかわる、重要中の重要問題であった。
 その演劇部の、同校の、部活動の、新入生募集の、部活動紹介、お披露目会では、何と、その部活は、演劇部は、皆、登壇した上で、太った人を先頭に、お腹に何か、顔の絵か何か書いて、腹芸で、皆を笑いに誘い、皆、会場の一年生や、他部の先輩諸氏、同校の先生方迄、皆が皆、大ぜい皆が、ドッと笑い出す程の大笑いであり、逆に、私は一人、それら皆と一緒には、どうしても、一人だけ、笑わずに、将来を真剣に悩み、苦しんだ表情を浮かべた、私がその会場に、一人、ポツンと、佇んでいた。泣きたいような孤独感さえ、その時、一人、感じていた。
 余りに酷いと思った。普段から、私は、真面目で通り、こんなふざけた真似は、小学校時代は確かに悪乗りをして、ふざけていた自分も居たが、段々大人しくなって来て、人前では自分の素性を隠しだんまりを決め込む事なども多かった私である。人一倍、人様には、後ろ指なんて刺されたくはない。イヤだ、絶対。これは今でも、ほとんど変わらない。
 それがあの人たち、コメディー路線の、あの人生舐め腐った、人生をバカにしたあの所業は一体何?むしろ、私は、その場で皆が笑っていたが、一人、私だけは、それとは違い、バカにされているような、本当に、あの笑い声の喧騒の会場の中、一人で、何者かに、怒りの感情すら起こって居た。
 
 その事を、母に聞いてみた、直接に。すると母は、こういった。笑い声を弾ませながら。
 「あら、いいじゃない。それは、シェークスピア演劇でも「喜劇」と「悲劇」と言うのがあって、私らが学生だったときには、あのシェークスピアという人は、本当は、一人の作家じゃなくて、最低でも二人は、ゴーストライターと言うか、あんなに、悲劇と喜劇に書き分けられないわよ、っていうお友達も、私の高校には居たくらいでね。私も最初疑ったけれども、やはり、私は同一作家の様な気がする。
 とにかく、あんたの学校は、喜劇路線なんだ。でも、人を笑わせるなんて、中々出来ない事ヨ。一番難しい事を、その人たちは行なっているんだと思う。人を笑わせ、喜ばせる人が、影でどんなに苦しくったって、それを顔色表情を一つ代えずに、舞台に立ち続けるなんて至難の業。惜しいなあ、やればいいのに。
 あんたは、少し暗いと言うか、すぐめそめそするたちだから、そうやって、暗く考えるんだろうけれども、そういった、先輩や同級生の方、部活の人達に揉まれて、お友達になったら、アンタの人生も、百八十度変わるわよ。やってごらんなさい。応援するから。」
 とまあ、こうである。
 私は、考えを、渋々変えて、演劇部室に行き、入部届を提出した。
 しかし、当時は、今だったら、今ならば、芸能界では、吉本興業、演劇では、欽ちゃん劇場、松竹新喜劇、大学では、東京芸術大学、日本大学芸術学部(『日芸』)等々、各種、演劇に関する、出世コースと言うか、登竜門と言うか、それなりの道があったんだなあとも思うが、後の祭りである。これらに、青春の汗を流しつつ、自分を鍛える、別の道もあったとは、今更ながらに、思う。
 その後、私は翻意し、意見を翻して、その当時、うちにあった、父や母が、おやつに食べようとして、大事に茶箪笥に仕舞って、飾って置いた、北海道産の小豆を使った、純国産の、大きな大きな特大サイズの「ようかん」を、母にこれ持って行っていい?と聞くと、何のために持っていくの?と聞いて来たので、元々お母さんが悪い、私を炊き付けて、こんなひどい目に遭わせたからこうなった。
 詰まりは、罪滅ぼしの為に、このようかんを持って行って、安高演劇部に。そうして渡して、今までの、その入部届を、なきものに、白紙に戻す。その為に、この「ようかん」がどうしても要る。私が、その人らに、ぶっ飛ばされないためにである。だから、一つ、もらっていくわ。
 といい、母の、折角、お父さんと、食べようと思ったのに、と言う声を背後に聞きつつ、勢いよく、学生鞄を手にして、大事にようかんを抱えて、自転車にまたがり、颯爽と、安高に着いた。
 何事も無く、演劇部室では、先輩方がようかんを受け取りつつ、じゃあ、他の部活に行っても、頑張って、とか言われる中、私は逃げるように、そこから抜け出して出て来た。これで、心の負担が一つ減り、やっと安堵できた。
 あの時、あの新入生歓迎会の時に、仮に、その同校演劇部が、もっとシリアス路線の、私の好みの路線の、演劇スタイルだったならば、私も思う所があって、すぐにでも、直参してでも、その門を叩いたかも知れない。
 しかし、あのレベルの演劇では、私を納得させ得るものは何にもなかった。
 全ては、無意味である。
 それだけの事である。

 長い長い、長文失礼。

 以上。よしなに。wainai


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