Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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福祉相談室長、K女史、我が家へ来訪-今までの事は無しに、打ち解けて話し合う関係性

2024年03月11日 15時48分34秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 福祉相談室長のK女史、が我が家へ来訪した。
 私はちょうどトイレに入っている所で、バツが悪かったが、何食わぬ顔で、対面した。 
 そして、私の話を聞いて、色々考えていた風で、最後には、相手側も、この年になり、あんまり、心臓にも体にも良くない事、一方的であった私であり、もう、本当に私が辞めるのかと思ったそうである。悪い事をしてしまった。

 それでも、私は調子よく、一人しゃべりを続けて、Kさんは、半分、眠くなったように、居眠りしながら私の話を聞いているので、そんなに私の話が眠くなる、説教がましいのかな、と個人的には思った。

 とにかく、その後、福祉まるごと相談のS藤氏にその後の一報を電話で入れると、私からも、個人的に済まなかったと、相談室側へはショートメールでは謝罪の言葉を入れていて、今回、丸く収まったので、良かった、と私もS藤さんも言い、それに対して同意のお言葉も頂き、私は恐縮した。
 
 今日は、私から正式に、謝罪を告白するのは控えめだったきらいがあったのが、それを今は後悔をしている。何度も謝るのが、何か、こちらが引け目を感じて、卑屈になり過ぎるのではないのか、との考えが私を支配する、これも、一種の被害妄想であろうが、謝っていれば、もっと相互の理解も今以上に深まったろうに。
 謝罪する事が、自分で恥ずかしいとの、照れ、もこの年でも勿論ある。有り過ぎる位、有る。それらが分かってもらえないもどかしさ。

 とにかく、福祉相談室長のK女史は、私が、個人的な悩みは、そうやって、すぐムキになって怒ったり、時には涙を流して悲しんでみたり、感情の起伏が激しいのは、これは私の年の初めの、今年は平和主義者で行く、との、想い、理念にも反する行為なので、K女史も言うのだ。それは、仏教的な世界観からも外れた行為なんじゃないの、と。
 
 それ以外にも、私の買い物が、どうしても、アメリカ発の、アマゾンでばかり買い物をしているので、時には、地産地消を心掛けたら、と言われたが、それは私も同意なのだが、今回の算盤は、どうやら郡山市内には売っていない感じだ。昔はやまのいカルチャーセンターがあった時が華だったのに、というと、あそこはなくなったの?と聞き返され、とっくに無くなった、と私は答えた。
 とにかく、市内の文房具屋のどこを探しても、算盤など買えない、というと、大槻の文具房という、大型文具店はどう、と言われたが、あそこも今は知らないが、その、二十何年前に既に私は確認済みで、無い、と言われた事を言った。
  
 とにかく、私のこの、相談室とのお話しも、一時間を経る前に、午後一時四十五分頃から始まったのだが、二時半を回ると、これから三時から、別の約束があるのだ、と言って、Kさんは颯爽とうちを出て行かれた。

 その後に、福祉まるごと相談の電話窓口に電話した訳だ。
 とにかく、今日は、関係性が終わりだと思われながらも、必死で、ショートメールが元で、印象が悪くなったのを、その後の同じメールで、謝罪に次ぐ謝罪で火消しに躍起となり、それが奏功したのかな、との想いが非常に強い。

 一度は許されても、おそらくは、二度目は、許される事などないのではないのか。しかし、私とは、そこの相談室とは、これで何度目の衝突だったろうか。何度か心配をかけている。そこが、私の配慮が足りない所であり、症状、病気の所なのだと思う。

 こうやって情けを掛けて頂いている、その事実、その結果に、ただ、喜びと感謝を捧げなければ、これは、虚妄、恩知らずの汚名を着た事になる。

 これは、相手が女性達だから、私はあと腐れもなく、何とか許されているのかな、とも思うが、そんな性差などは、この場合、きっと関係はないのかも知れない。

 その相談室のK女史さんも、今は、セクハラ(セクシュアルハラスメント)、パワハラ(パワーハラスメント)、カスハラ(カスタマーハラスメント)、モラハラ(モラルハラスメント)、ストーカー行為等々…、と、幾つものハラスメント、つきまとい、嫌がらせ行為が沢山概念が出来上がり、コンプライアンスで法的にも、違反、違法となり得る難しい厳しい時代だから、利用者さんと言えども、昔の様には振舞えなくなって来ている。利用者が加害者と成り得る事共も同時にあり得る事を、強く訴えておられた。

 口は災いの元、とはよく言ったものだ。一時の感情だけで人と話してはいけないのだ。自分の中でよーくと噛んで含んで咀嚼して、考えを巡らせて、用意周到に発言する。その際は、自分に非はありはしないか、を十分弁えて、細心の注意を払って、気を付けて発言をして、それに責任を持つ、一人の大人として。その一言で、誰か傷つく人はいないか、それを良く深く考える事。

 しかし、折伏に於いては、相手におもねるのは厳禁だ。しかし、相手の話にじっと注目し、傾倒、傾聴して、よーくお話を聞かせて頂くのは、これは鉄則だ。自分が語るよりもまずは、相手の言い分を徹頭徹尾、徹底して聞く。聞き役に徹する。

 その上で、反論が必要ならばする。その折伏の正論を述べるのは、相手の話の最後の最後に、こちら側が最終的に打って出る事である。相手の間違いを破折する。決して相手の人格までは否定しない。その依って来たる思想の誤り間違いを指摘し批判しつつ、やんわりと折伏する。
 こういったスタンスが、日蓮正宗の折伏行ではなかろうか。感情的になるなどは以ての外で、御法主日如上人猊下様が常々非難申し上げている、「折伏はケンカでは決してない」を信徒として守っていない事となる。それは一番に、避けなければならない事である。

 昔、孔子は「論語」で、巧言令色鮮し仁、といって、言葉が巧みで、発言を多くする人には、誠の、仁、愛や、慈悲はまれで少ない人が多い。むしろ、寡黙で、言葉を慎み、発言を控えて抑えている人の方の味方を、立派な御仁だと、孔子様は制したのだ。正に、今の議論は、それだ。(おしゃべりの私には痛い言葉だが)

 ただしゃべっていれば、無駄口叩いていれば、思い付きを話せば、いいと言うものでは決してない。そういうのを仏法上でも「愚痴」と言う。言わば、仏教でも御法度の「貪瞋痴」の三毒、小罪・大罪なのである。

 言葉とは余程、選んで人と話さなければならない、との想いを強く懐いた、今日この頃である。

 以上。よしなに。wainai


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