初めに。
=この文章群の根底には、現時に於いては、執行部に向かったが、それは正に畏れを知らぬ間違いであったとおのれ自身で気付く。妄想も我ながらここまで来ると実に恥じ入るとともに、怖ろしくもある。私の完全なる判断間違いミスジャッジだ。それへの詫び入れとして、後半部には、私の敬愛する郷土の名士、英雄、鹿児島からの先祖、祖父の同じく尊崇した「西郷隆盛」の言葉を稲盛和夫氏の名著から引用して掲げて載せた。この言葉で大いに反省を致し、慰められた。時として、言葉は選んで使わないと、多くの人を傷つける基ともなり得る。
正に、日本が第二次世界大戦に突入するきっかけとなった、真珠湾攻撃。織田信長に対して、三日天下と言われた、明智光秀。いずれも、悲劇で終わるが、歴史は悲劇では終わらない。日本は戦後の復興を遂げて、やがてはアメリカをも脅かす経済大国へとのし上がった。明智光秀も、後の天台宗の高僧、徳川幕府にも取り立てられたと言われる、天海へと成り代わった、との伝説もある。
今は例え仮に荒唐無稽に思われようとも、私は真実には叶わないと見抜き、想い、考える。そして、努力は報われない事など決してない事を知った上で、その努力を、我が人生の願いとして、この誓いの言葉として、再び誓うものである。
私は人相を観ただけで、その人間が本物か、真実にたる人物か、或いは全くのニセモノか、その因って立つところはいずこからか、全てお見通しだ。
企業など、百年続けば、十分老舗であり、そこまで続いた企業など、皆、一握りだ。大抵の企業など、一切が、十年単位、中には数年で皆、水泡のように消えてしまう。そして、その企業の存続が何百年、千年単位となれば、それこそ一社、二社数社との、稀有な存在だろう。
しかし、宗教教団は、事を異にする。どんな邪宗邪教でも、何十年、時には百年単位の栄枯盛衰を繰り返す。キリスト教などという邪教は、その命脈を千年、二千年と息を永らえさせて、世に悪弊、害悪を振り撒いている。その仕組みは、怖ろしいくらいだ。
正に歴史は繰り返す。そして、歴史は、成功も失敗も表裏一体だ。今の勝者が果たして後々まで勝者でいられるのか。逆に今は敗者でも、いつまでも敗者が真実なのか?!これを今、私は問うているのである。=
本論。私の言い分。
私は今朝、八時に、或る幹部から、こんなTELをもらった。
私が要件は何か?と聞くと、朝っぱらから、九月の総登山への誘いであった。
私は、うちの母の具合が思わしくない事。お金が年金暮らしの為、現在カツカツであり、とてもじゃないが、そんな余裕さえない事。今年は三月末と、六月下旬にもう二度も行っていて、行く務めはとっくに果たしており、今年はもう、九月は行かない事に決めている事。等々を相手には伝えた。
その人は、お母さんの為にも、総本山へ行って、祈ってきっせ、と言い募り、人の気を引こうと躍起になっているのが判る。
私は、もしもの事が、母に起こったら、どう責任取るんだ、それに、私自身が、道中の事故などになったら、これも責任は誰が取るんだ、との言説を言い募っても、そんな事は起こらない。滅多な事では起こらない。そんな言い振りであった。私は、万に一つ二つ、実際に起こってみないと判らず、そんな事を赤の他人に軽々に言われたくはないと実感として思った。
それで、相手は、いいことずくめ、いい事ばかりの話で終始して、電話を締め括った。それに対して私は、どうにも、話としては非常にムシが良過ぎるきらいがあるのを思わずにはいられなかった。
ここで、私自身に反省と自省を試みる。
しかし、私は非常に恵まれている。せっかくこうしたお誘いを受けたという事は、私はその時までは、特別待遇で、その幹部さん、実を言えば副講頭さんの御目こぼしに合い、ご理解を賜り、御配慮を有難くも頂いている根拠・論拠にもなり得る。何も私が恨む話でもあるまい。ここは断るにしても、穏便に済ませて、それら、私の恨みやすい根性は、三毒、貪瞋痴(とんじんち、貪り・いかり・おろか)であり、恨善・憎善・嫉善・軽善の、十四誹謗、破和合僧ともなり得る大罪であろう。
ここに深く謝するものである事を、現講頭さん副講頭さん達には、私から申し上げねば、至らぬ私の面目、そんなものよりも、それら方々への、仁義が廃るのである。これらは、立派な悪い罪障となって顕れないよう、日々のお題目をもって、祈る次第である。明らかに、私に非があり、向こうは正義大義があるのであるからして。ここは何としてでも丸く収めたい所である。私は、全面無条件降伏も辞さぬものである。
ここで、地区婦人部長、O合さんから一言(TELで相談)
人生で、取り返しがつかない事がある。一度言った事は取り返しが効かない事が多い。wainai君(私)は、反省する事ばかりで、追いつく暇もない。
とにかく、謝ってばかりいたって、言った事は取り消せない。私も良く、講頭さんには言うんだ。wainai君は一人暮らしで、寂しいんだ、きっと。だから、みんなに絡むんだ。そこを判ってあげて欲しい。若手への嫉妬も、皆wainai君の寂しさから来るんだ。
とにかく、反省したって、wainai君の場合は、罪障積み過ぎて反省し切れるものではないから、反省は程々にして、今回の事はしょうがないから、ゆっくりご飯を食べるなり、自分ばかりを責めないで、健康的に生活を組み立て直して、過ごす事だ。
終わった事ばかりに目を向けずに、地道に努力を重ねる事。そうすれば、いずれ、判ってもらえる日が来る。(私:有難い。O合さん、ありがとう。うれし涙。)
「人生の王道」西郷南洲の教えに学ぶ・稲盛和夫著から
ここに、西郷南洲(隆盛)の遺訓を、稲盛和夫著の、「人生の王道」から、その西郷の語った主要な部分を抜き書きする事として、読者の皆さんとは、お別れお開きと致す。
[遺訓二一条]
道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」(『論語』)と云えり。
総じて、人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能(よ)く古今の人物を見よ。事業を創起する人その事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、残りの二つを終わり迄成し得る人の希(ま)れなるは、始めは能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕(あらわ)るるなり。功立ち名顕るるに随(したが)い、いつしか自ら愛する心起こり、恐懼戒慎(きょうくかいしん)の意弛(ゆる)み、驕矜(きょうきょう)の気漸(ようや)く長じ、その成し得たる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も我が事を仕遂げんとてまずき仕事に陥(おち)いり、終(つい)に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己れに克ちて、みず聞かざる所に戒慎(かいしん)するもの也。
(訳)
道というものは、この天地のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには敬天愛人(天は神と解してもいいが、道理と理解すべき。すなわち、道理を慎み守るのが敬天である。また人は皆自分の同胞であり、仁の心をもって衆を愛するのが愛人である)を目的とし、自分の修養には己れに克つということをいつも心がけねばならない。己れに克つということの真の目標は論語にある「意(い)なし、必(ひつ)なし、固(こ)なし、我(が)なし」(当て推量をしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない)ということだ。すべて人間は己れに克つことによって成功し、己れを愛することによって失敗するものだ。歴史上の人物をみるがよい。事業を始める人が、その事業の七、八割まではたいていよくできるが、残りの二、三割を終りまで成し遂げる人の少ないのは、はじめはよく己れを慎んで事を慎重にするから成功もし、名も現れてくる。ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心が起こり、畏れ慎むという精神がゆるんで、驕り高ぶる気分が多くなり、そのなし得た仕事をたのんで何でもできるという過信のもとにまずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていないときも聞いていないときも自分を慎み戒めることが大事なことだ。
西郷のいう「道」とは、つまり誠(まこと)のことです。中国の古典、『中庸(ちゅうよう)』の中に、
「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」
という言葉があります。誠実、誠を尽くすことが天の道であり、その天の道に従い生きることこそが人の道だということです。
ーーーーーーーーーーーーー(以上、引用終り。)
(これら文章は、稲盛和夫氏の著作引用以外は、大幅に大々的に元の記事の原型を止どめぬほど、文章に手を大量に書き加えて、悪しき文を改めて、原作を改作改定改変を施したものです。)
長文失礼。以上。よしなに。wainai