岡本太郎著「自分の中に毒を持て」あなたは”常識人間”を捨てられるか、を読み終わった。
元々は、週刊誌に連載されたものらしいが、この書は強烈な感じである。「芸術は爆発だ!」との、著者の言葉、大阪万博エキスポ70の、「太陽の塔」などが、私のような、昭和の頃の比較的若い生まれの世代にも、彼の姿が焼き付いている。
或る一例として、要約すると、岡本太郎氏は、その時代、昭和の頃からの、その当時から勃興して来た、若者たちの、素朴に生きる、素のままの、自分で何かを生み出そうとする、「ほんもの」にこだわった生き方に称賛を贈る。着るものも、食べるものも、考えることまで大量生産に飽き飽きし、うんざりして、やっとその空しさに気付いた。何かを取り戻そうという動きが、健全だという。
しかし、それが、「手作り」の良さという時、どうしても、職人さん、器用な人の作った精巧なものを考えてしまう。技術的にしっかりしてて、仕上がりが丁寧という。
これに対して、岡本太郎氏は大いに不満をいだく。むしろ下手で、不器用、素人の手作りを褒めたたえる。
その方がずっと人間的であり、身近だし、見ていると夢が開き膨らむ。
職人が作ったものは、余りに器用であり、出来上がったものは、既製品の如く冷たく外側のものの如くの、権威ともいえて、本質的に自分から離れている、と。
昔から、職人の仕事とは、機械製品を、機械のように正確に、熟練した器用な手で製作する、という、職人芸。
それらは、階級社会で、狭く枠づけられている。誰でも自由に携(たずさ)われず、閉鎖的である。しかも、秘伝とか秘法とか言って、嫉妬深い職業上の聖域を作り、素人を締め出す。
職人の製作品は、商品として、その中でもとりわけ精巧で優れたものは、権力や富を持った人のみが手に入れられる。一般人とはかけ離れてしまっている、という。
これを、岡本太郎氏は、職人芸の枠を受け継いだ、人間疎外のコマーシャリズムと名付ける。
岡本太郎氏が考える「手作り」とは、実は手先ではなく、心で作るものなのだ。実生活で、自分で情熱を込めて、ものを作る。楽しさ、解放感、冒険、うまくいかないのでは、との不安の中で、それを乗り越えて作り上げる。
そこに生きている夢があり、生活感のドラマがある。
「心」が参加して、生で生きて働いている事が、「手作り」の本質だと。
職人さんの慣れた手つき、半端ない完成度は、本当の自由度、生活感は感じられない。
であるからして、手作りとは器用である必要は全くない。職人の真似をして、絶望して、自分が不器用だから、といって、しり込みするのは愚の骨頂。
子供の頃を思い出せば、誰でも平気で作製していた。大人になるにつれて、みっともない、自分なんて、との自己を卑下してしまう。
とんでもないことだ。絶対に下手な方が良いのだ。笑いが出る程、不器用であれば、かえってそれは楽しい、想い出ともなる。平気でどんどん作って、実生活を豊かに開いて行く。それが意外にも、美しく、嬉しい事へと繋がる。
それが、現代社会の空しさの中で、自分を再発見して、自由を獲得出来得る大きな機会となる、と。
これが、岡本太郎氏の、或る章の言葉の要約であるが、私は、この、平凡の中に非凡を求めて見る、その極めての正論の、岡本太郎という人に感動し、非常に大好きになった。
以上。よしなに。wainai