11/22/15 川崎へ
父への見舞いは数年続いた。中でもきつかったのが、夏場。わたしは汗っかきで、汗を全身したたらせ、道中ラーメン屋の座敷で一休みし、現在ならば熱中症の一歩手前だった。
そんな中、川崎へ引っ越しした。父も退院し、家族みんなで暮らせるようになった。
川崎では、保育園、小学校と通った。
保育園では、父が毎朝、園まで送ってくれたが、あんな父なのに、別れ際、家族の少ないわたしは毎朝「行かないで」と泣いていたと、その当時の保育園の連絡帳に書いて有った。
保育園では、当時、人形劇団の「ひとみ座」というのが時々来て演劇をみせていたが、その劇団員の子供と友達だった。
小学校でも友達がたくさん出来た。
川崎でも富士山が正月になると見えた。光化学スモッグが晴れて雲がなくなり、開成町よりは小さいが、雪を冠った富士山だった。
教室に暖房がなくても暖かかった。
福島へ引っ越すことが決まると、学校の皆が引っ越しへのみやげをくれた。それは引っ越し当日まで続いた。
福島ならば、決まって引っ越す本人がみやげを配らなければならない。逆だった。まだ神奈川の方がよい。
自分史的なものをここまで綴ってきたが、ブログでは限界がある。福島編はないが、神奈川編はここまでにしたい。ブログで自分史を綴る事には意味がある、と思う。
神奈川県への漂泊の思いやまず、帰れるものならば、帰りたい。いつか戻れる事を祈念して、筆を置く事にする。