沖縄にあるNAKAの故郷の島・伊是名島へ行ってきた。
2009年6月6日土曜日、高知の仕事を終え、京都に戻り自宅に着いた時はすでに日が変わり、午前一時を過ぎていた。かなりへとへとになりながらも缶ビールを飲みながら旅の荷物を作る。そして安眠のためにワインを2杯飲んだ後、ベッドについたのであった。
朝5時過ぎ起床。朝一番の関空特急はるかに飛び乗る。さて今回の旅がはじまった。沖縄の離島への旅である。
関空までの電車内は当然の如く寝ていた。関空に着いてチェックインの際、NAKAの家へのお土産にと高知で求めてあった『土佐鶴』の大吟醸をカバンから落としてしまい、2本セットのうちの1本を割ってしまった。やれやれである。ANAの係員に捨ててもらうように頼んで機内に乗り込んだ。
機内でもやはり寝ていた。
目が覚めるとすでに沖縄上空まで着ていた。窓から見える海は記憶通りのマリンブルーである。オレのはやる気持ちを押さえ込むように、ゆっくりとゆっくりと飛行機は下降していった。
那覇空港に着き、NAKAに電話する。ちょうど今、レンタカーでこちらに向かってる途中、10分待ってくれとのこと。ターミナルの外に出てタバコをふかす。やはり暑い。まだ朝10時過ぎなのに、すでに陽射しは南国である。
そうこうしてるうちに赤いTシャツを来たNAKAがやってきた。10年ちょいぶりの再会である。固い握手。相変わらずのNAKA。会えてうれしい。
すでにNAKAは考えていたかのように車を北谷(チャタン)に向けた。北谷は名護近郊にある米軍基地エリアである。昨夜しこたま酒を飲んだらしく、『とにかく沖縄そばを食べよう!』とNAKAは言った。 二日酔いにも効くらしい。
開いてる店に入る。
やはり沖縄そばはうまい!うまい!!
食後、更に車を北へむける。昔懐かしい話の中で、本島に住むテツの話題になり、早速NAKAが電話をかける。電話で話すと今は名護界隈で不動産業をしているとのこと。テツがクルマで俺たちを追いかけてくる間、国道沿いの釣具屋に立ち寄って、船釣り用の竿とリール、仕掛けを求めた。 テツとの再会も10年以上ぶりである。NAKAも5年は会ってなかったらしく、釣具屋の前のベンチで半時間ほど近況を話しあった。彼の人懐っこい笑顔も変わらずであった。
テツと別れ、我々は伊是名島へのフェリーが発着する運天港へ更に北上した。レンタカーを駐車場に預け、売店でオリオンビールを購入し、フェリー・ニューいぜなに乗り込んだ。
甲板で乾杯である。しかし伊是名島は本当に小さい島のようである。フェリーに乗るだけで、NAKAは数人の知り合いに会う。
しかし驚いた!
話してる会話が俺には全く聞き取れないのである。フランス語のようなのである。
観光客のいないフェリー。本島でのクラブ活動から島に帰る中学生たち。素晴らしい海と空。遠くに見えるまっすぐに伸びる橋。オリオンビール。目の前に座るNAKA。
最高であった。
NAKAは9人兄弟の末っ子。その兄弟のうちの5人とその家族、そしてNAKAのお父さんが伊是名島に住んでいると言う。小さい島に大家族なのである。伊是名島の港には、NAKA兄弟の三男のお兄さん、お父さん、義姉2人がいた。
そしてNAKAのお家にお邪魔した。みんなとても優しい顔をしている。俺に話し掛ける時は、出来る限りの標準語で話してくれる。温かい家族である。
少し休憩してNAKAとスーパーへ向かった。晩飯はNAKAが作るようである。スーパーにて、お姉さんに頼まれた水を購入する。大きなタンクにいっぱい。11リットルで200円也。聞けば島の水は石灰が強くとても不味いらしい。 大家族に交じり飯を食べ、酒を飲む。泡盛を勧められるがあまり飲めないので、買ってきた赤ワインを開け、逆に勧める。とても楽しいひとときであった。
77歳のお父さんが、おもむろにみんなの竿にリールをセットしはじめる。どうやらお父さんも明日船に乗るようである。
布団に入るとヤモリが鳴いているのに気づく。
翌朝、NAKAのお父さんの軽トラの荷台に乗り込んだのは、オレとお兄さんらの中2の2人の息子たち。運転席にNAKA、助手席にお父さん。船に乗るメンバーである。釣具屋を回り、餌と仕掛け、氷を求めて港に向かった。
大潮であったが、波穏やかで最高の釣り日和であった。先ず一番にオレが30センチほどのムロアジを釣り上げた。しかし色んな魚が釣れた。釣れる度に船長さんか、お父さんに、『これはなんという名前か?食えるか?』と聞いていた。『そいつは刺身がうまい!』『それは塩焼きでいける!』、船長さんが答えてくれる。
午前中、釣果があがらず寡黙の人となっていたNAKAの竿にも大物の当たりが来た。NAKAの竿がしなる、しなる。
俺の竿もしなる、しなる。
イケカツオである。50センチ以上はあった。
NAKAが朝用意したおにぎりと卵焼き、それにもちろんオリオンビール。
透明度の高い蒼い海。それよりわずかに淡い空。至極の時間ここにあり!
時計など要らないのであった。
しかしNAKAに長袖のシャツを借り、日焼け止めを分厚く塗りこんだのにかかわらず、首は赤く日焼けてしまった。
夕方4人で、家の前で釣った100匹以上の魚を捌くのが大変だった。俺は鋏でカワハギの皮を剥ぐ役割だったのだが、その硬いこと!硬いこと!!には、閉口した。 しかし晩飯の刺身のそのうまいこと!うまいこと!!
感動もんだった。
また近所の吉田スーパーへ、店に一本だけあったワインを求めたのであった。 その夜、NAKAは11時には泡盛で沈没。俺は漁協で働くお兄さんとふたりで飲んだのであった。
翌朝は町内放送によりはやくに目覚める。外に出ると家の裏に山羊がいた。もうすぐお父さんに絞められる運命のようである。山羊の刺身は美味いとお兄さんの子供が話す。山羊の血は体に良いとお父さんが言う。
ハイビスカスが咲いていた。
午前中、NAKAに島内観光に連れて行ってもらった。
スーパーでソーダのアイスを買う。昔懐かしい味。
お兄さんに昨夜聞いていた漁協の店へ行く。そこでは100円でカップに入った『沖縄もずくそば』が食べられるのである。
しかし100円とあなどるなかれ!こいつの美味いのなんのって、オレはこの日3杯も食べたのであった。
午後より干潮がやってくるということで、NAKA一番目のお兄さんに、サザエ採りに連れて行ってもらった。
しかしなかなか素人のオレには難しかった。仕方がないのでシャコ貝専任としてシャコ貝を探求したのであった。(さすがのお兄さん、10数個サザエGET!)
その貝類を魚にBBQを3番目のお兄さんの家の前ですることになった。それぞれの家族の子供たちのために、スーパーで肉野菜を用意して参加した。
サザエはビールと醤油を注ぎ焼いて食べる。(まじうま!)
シャコ貝は開いてよく洗って刺身であった。(これはかなり癖があった!)
オリオンビールと泡盛で宴会。通りがかりの人々も宴会に突然参加である。それが普通のようである。子供たちにはオレが焼きそばを作ってあげた。みんな仲が良い。聴けば1学年20人前後だとのことである。
目の前のさとうきび畑の上の夜空にまあるい月が浮かんでいる。畑にたちしょんをしながら、ほのぼの来てよかったと思う。
よくわからない島の人たちのフランス語が流れていく。それでもオレは酔って満足なのであった。
家に帰り、今夜も沈没したNAKAを横目にお父さんと話した。お父さんは数年前、心臓バイパスの手術をしたと、お腹を出して手術のあとの大きな傷をオレにみせた。
次の朝も早起き。ひとりぶらっと散歩。通学途中の自転車の中学生たちが、『おはようございます!』と声をかけてくる。田舎のよいところである。
朝9時のフェリーで島を離れた。お父さんと義姉2人が港まで送ってくれた。
『また来い!』と言ってくれた。みえなくなるまで手を振っていた。
NAKAと本島に戻り、レンタカーでぼちぼち南下していこうということになった。
『美ら海水族館』に立ち寄る。巨大な水槽を泳ぐジンベイザメとマンタが雄大であった。
名護まで戻り、NAKAお勧めの『宮里そば』へ、また沖縄そばを食べに立ち寄った。この店は昔からずっと、労働者やタクシーの運ちゃん、地元の人たちに慕われてきた店らしく、店内は一人の観光客もいなかった。
そして沖縄そばは抜群に美味かったのであった!
本当にあっという間の時間であったが、久しぶりに充実した3日間であった。本当に温かいNAKA、そしてNAKAの家族には感謝している。またみんなに会いに行きたいと思いながら、NAKAと別れ、那覇空港で我がマイサクの為に一番大きなパイナップルを買い、飛行機に乗り込んだのであった。