いつものオーマイニュースとはちがう別のサイトで、またまた歴史がらみの長い解説がありました。政略結婚が渦巻いていたのですね。
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キム・ユシン‘炎ショー’で妹と「火遊び」のキム・チュンチュを掌握する ‘ショー’をしなさい、権力を得るだろう
人生は出会いだ。 生まれる時両親に会って友人と、師匠と、恋人と、同僚と、顧客と、恩人やライバルと、後継者に会って死ぬ。 いつどのように誰に会ったかにより人生の水の流れが変わり、人生の値打ちが変わる。 私たちが一部分になっている歴史も同じだ。 敵対者らの出会い、助力者などの出会い、新しい時代をひらく人々の出会いが横糸と縦糸のように編まれて歴史という大きい枠組みを絞り出す。 胸が熱くなる出会いもあるし、胸がしびれる出会いもある。 不可能に見えた夢をかなえる出会いがあり、重ね重ね残念な思いをする出会いがあって、個人の運命を変えて、歴史の碑を刻む。 西暦630年前後に成り立ったキム・ユシンとキム・チュンチュの出会いは互いに押してやったり引いてやったりする「水と魚の出会い」だ。
“みなさん、あのう、あれは何?”
“ええ? 何の話ですか?”
“あそこ下の方で煙がもくもく広がり始めているではないか? 待てよ。あちらはキム・ユシン公の邸宅がある側なのに•••。火でも出たという話か?”
日差しのどかな慶州の南山。 しばらく花見を楽しんだ女王は側近たちに慌ただしく尋ねた。 少し後状況を見回りに行った護衛兵が慌ただしく話して、女王の前にひれ伏した。
“•••見てまいります。キム・ユシン公が妹を燃やして殺すと言って木を積み上げて火を付けました。”
“なんだって? いったいそれは何ていう奇怪な話か? 理由は何か調べてみたか?”
キム・ユシンの妹さんムンヒが未婚の体で子供を持ったためだという言葉に、女王は顔をしかめて周囲を見回した。 その時の顔を赤らめたまま頭を下げたキム・チュンチュが目に映った。
“分かって当然だ。キム・ユシン公のお宅の火遊び、まさに君が犯人だろう、そうだろう?” “•••••。”
“自身がつけた火は自身が消さなければならないのが道理! はやく行って彼女を救いなさい!”
私たちがあまりにもよく知っている‘夢を買って王妃になる’の話だ。これは『三国遺事』をはじめとする三種類の記録に伝えられるのに、内容は少しずつ違って『三国史記』には‘火遊び’話が出てこなくて,『花郎世記』にはキム・チュンチュにキム・ムンヒとの結婚を命令した当時トクマンはまだ王になる前の王女だったとある。
しかしこの場面の裏を一つずつ探ってみれば、そんなに単純ではないということがあらわれる。 まず少しだけ考えればキム・ユシンが心から妹を殺そうとしてはいないことが分かる。 本気だったら百済のケベクが妻子を殺す時のように刃物で切りつけたり、自決しろと単にひもを投げかけたりしただろう。 あえて燃やして殺すとして一騒ぎし、薪の山に人は入れないまま火からおこして煙が遠く南山で見えるほどわき上がるようにしはしなかったはずだ。 家の恥さらしだと妹を殺すということなのに、そのような恥さらしをそのようにあちこち宣伝する理由はなくはないのか??
それでなぜキム・ユシンはあえてそのような‘ショー’をしなければならなかったのだろうか? 妹とキム・チュンチュをごり押し式で結婚させなくてはいけなかったのだろうか? ムンヒと関係したキム・チュンチュの意志が不透明な可能性が浮び上がる。事実キム・チュンチュはすでに夫人があったが,『花郎世記』にはキム・チュンチュが夫人ポラン宮主を愛したし彼女がちょうど妊娠中だったのでムンヒとの結婚を迷ったとなっている。 だが単純な男女間の愛情問題以上の政治的利害関係もあるようなものだ。
当時新羅王統は聖骨で継承されていたが、キム・チュンチュとキム・ユシンはそれより一段階下の真骨だった。しかし真骨になった理由は全く違った。 キム・チュンチュは彼のおじいさんの真智王が‘荒淫無道’して廃位されたので聖骨から真骨に降格されたし、キム・ユシンは新羅に降参した伽耶の王室血筋として真骨に編入された状態であった。 言ってみればキム・チュンチュは自身が真骨であることが不満そうだったし、キム・ユシンは新羅の土地で生き残って成功しようとするなら真骨の名前にしがみつかなければならなかった。
血の純粋性を問い詰める新羅社会で、すでに最初の花郎と呼ばれるソルウォンランの孫娘のポリャン宮主と婚姻して聖骨でない聖骨を指向したキム・チュンチュに‘にせ物真骨’と姻戚になることはそんなに感服できなかっただろう。ただしキム・ユシン一族が整えた軍事的な実力(キム・ユシンのおじいさんキム・ムリョクは百済聖王を殺害して真興王の漢江流域制覇に大きい功績を立てた)が欲しくて親密なよしみを結んだだろう。 キム・ユシンとしては自身と一族の位置づけをしっかりするためにキム・チュンチュと単純な友人以上の間にならなければなければならないと感じただろう。
ところでここで注意する部分がもう一つある。この結婚を成功させる主役の善徳女王の存在だ。 南山で遊んで偶然に遠く離れたところの煙を見ては、それを見過ごさないで最後まで暴いて真相を表わすという点はどこか不自然だ。キム・チュンチュは後ほど高句麗・日本・唐にあまねく通って命をかけて外交を広げた人だ。しかし、一気に調べてみる程顔色が変わったのも変だ。 キム・ユシンと善徳女王の間にあらかじめ話があって、,脚本に従ってキム・チュンチュを圧迫したという気配が濃厚だ。 善徳
女王はなぜそうすべきだったのだろうか? ドラマを見れば意識しにくいが、新羅でも女性が王になることは見たことも聞いたこともないことだった。即位直前チルスクとソクプムの乱、即位後のピダムの乱はすべて“どうして女が私たちを治められるか”を名分にした。真平王に代を引き継ぐ息子がなくてトンマン王女が王になったが、その位置づけは非常に不安だったのだ。
女王は保守的な旧貴族よりは野心と才能があふれる新進貴族らと手を握りたかった。キム・チュンチュとキム・ユシンは最適のパートナーの候補者であったが、ただしキム・チュンチュは場合によってはむしろ敵になる可能性もあった。 真骨で降格されたのだが王位継承序列ではむしろ自身よりも先んじたためだ。 したがって二人が手を握るようにして、その連帯の保証人が自身であることを強調する必要が切実だった。それがまさにキム・ユシン家の‘火遊び’の原因だった。 キム・チュンチュの立場では多少不満そうなキム・ユシンとの義理兄弟-妹婿としての出会い。
しかしその出会いはこの上ない出会いだった。以後30年間余りキム・チュンチュは文を、キム・ユシンは武を担当して三国統一の主役になった。キム・チュンチュは太宗武烈王になってキム・ユシンは太大角干となり、最高の富貴と栄華を享受した。 ‘燃やされるところだった’ムンヒの赤ん坊,キム・ポプミンは文武王になって統一を完成した。個人や国家や、当面の立場や利害関係のために見ることができなかった途方もない出会いの可能性が‘いたずら’ではじめて現実化されたりもする。
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