642年(善徳女王11)、アムニャンジュ(押梁州;今の慶北、慶山市)の軍主になり、644年(当時49歳)蘇判位に上がった。同じ年9月上将軍になり、百済の加兮城など7省を攻撃して勝利し、翌年1月に凱旋した。ところで王を謁見する前にメリポソン(買利浦城;今の慶南、居昌)が百済軍の猛攻を受けているというパパル(宿駅)に直ちにサンジュ(上州;今の慶北、尚州市)の将軍になって出陣し、大きく打ち破った。
647年(善徳女王16) (ユシンは当時54歳)1月には女王を地位から追い出そうと乱を起こした上大等ピダムとヨムジョン(廉宗)の反乱軍を討伐し、10月ムサン(茂山)等3省を攻撃してきた百済軍を歩兵·騎兵1万で大きく撃破した。
翌年アムニャンジュ君主として百済に奪われ大梁城(今の慶南、陜川)を攻撃して陥落させたのに続きアクソン(嶽城)など12省を奪い、その手柄でイチャンの位に昇進し、上州行軍大管になった。
649年8月には石吐城など7省を攻撃してきた百済の将軍佐平殷相を打ち破った。654年3月真徳女王が後嗣なしで死ぬとすぐに宰相であったイチャン・アルチョン(閼川)と相談してイチャン・金春秋を王に推戴したが、彼が即ち太宗武烈王だ。翌年9月百済の刀比川城(忠北、永同郡の飛鳳山城(ビボン山城))を攻略し、この時、百済王のみだれた政治を見て百済を滅ぼすことを王に建議した。
660年(太宗武烈王7) 1月、上大等に昇進し、7月新羅精鋭軍5万と蘇定方が導いた唐軍13万が連合してサビ城(泗沘城)を陥落させ、百済を滅亡させた。661年(文武王1) 7月、羅唐連合軍と共に高句麗を征伐しに行く途中の9月、オンサン城(瓮山城;大田市鶏足山城)にある百済の残賊を討伐し、12月唐軍の軍用米が危機に陥り、唐軍の撤収で高句麗征伐は失敗に帰した。
663年8月。百済の復興軍をトソル城(豆率城;周留城)で大破し、665年唐の高宗から奉常正卿平壌郡開国公に封じられた。667年(文武王7)、王について唐軍と共に高句麗征伐に出たが失敗し、11月軍を引き返した。翌年9月、羅唐連合軍で平壌(ピョンヤン)を打つ時、連合軍大管になったが王命で宮城に残って国防を引き受けた。
高句麗征伐直後、太大角干の最高職位に上がった後、唐軍事を追放するのに努力して漢江(ハンガン)北側の高句麗の領地を取り戻すことによって三国統一の基盤を固めた。673年(文武王13) 7月、病気で亡くなった(78歳)。遺体はクムサンウォン(金山原;今の慶北 慶州市)で葬式を執り行い、835年(フンドク王 10)、興武大王に追尊され、慶州・西嶽書院で国によって祭られた。
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