今週の祈祷会で学んだこと。
「イエス・キリストの受難」 ジョン・パイパー著 いのちのことば社
第6課 「ご自身の愛を示すため」
「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」(ガラテヤ2:20)
この聖書箇所をはじめ、聖書は、イエス・キリストの死が「私」への愛を示すためだったと教える。
2000年も前のイエスの死がどうして私と関係があるの?と思われるだろう。
しかし、それは激しい迫害に直面していた初代教会からずっと受け継がれてきた信仰である。
この信仰を失ったとしたら、キリスト教も単なる学問や主義の一つとして扱われても仕方がない。
イエス・キリストの愛は、「私」という各個人に向けられている。
確かにイエスは全人類を愛する救い主であるが、それと同時に非常に個人的に「私」を愛している。
イエスの死が私への愛を示すものであったこと。
本来、このことはクリスチャン生活の根底にあって、喜びと平安、そして献身的な応答をもたらす。
もう一度、あらためてこの聖書の言葉を味わってみたい。
「いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
「イエス・キリストの受難」 ジョン・パイパー著 いのちのことば社
第6課 「ご自身の愛を示すため」
「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」(ガラテヤ2:20)
この聖書箇所をはじめ、聖書は、イエス・キリストの死が「私」への愛を示すためだったと教える。
2000年も前のイエスの死がどうして私と関係があるの?と思われるだろう。
しかし、それは激しい迫害に直面していた初代教会からずっと受け継がれてきた信仰である。
この信仰を失ったとしたら、キリスト教も単なる学問や主義の一つとして扱われても仕方がない。
イエス・キリストの愛は、「私」という各個人に向けられている。
確かにイエスは全人類を愛する救い主であるが、それと同時に非常に個人的に「私」を愛している。
イエスの死が私への愛を示すものであったこと。
本来、このことはクリスチャン生活の根底にあって、喜びと平安、そして献身的な応答をもたらす。
もう一度、あらためてこの聖書の言葉を味わってみたい。
「いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)