マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

問われるところ

2008-07-22 23:17:29 | 最近の読書
今日はほとんど一日教会にいました。
祈祷会の準備、ポスティングの準備、電話応対、草取り・・・
静かな一日でした。


今日、K先生がA先生の説教を添付したメールをくださったので、
2回ほどくり返して聞きました。
ちなみにA先生の管理しているサイト、ロゴス・ミニストリーには、私も時々立ち寄らせて頂いてます。
聖書をまんべんなく解説しているので、いろいろ役立っています


説教の聖書箇所は出エジプト記でした。
モーセの召命に関する場面です。
この説教を聞きながら、思い出しました。
以前、記事にしたテーマ、使命感と召命についてです。


改めて、召命(神様からの献身への呼びかけ)の確認がいかに大切かを考えさせられました。
最近2回目を読んでいる「牧会入門」(いのちのことば社/C・H・スポルジョン)の中にも「教役者への召し」という章があります。
その章の中に、消極的な表現ですが、このような一節があります。
「召命を見誤るということは、その人にとって恐ろしい不幸である。そして、その人が誤って教役者となっている教会にとって、その失敗は、最も痛ましい苦悩を意味する。」
そして、もし人が教役者(牧師・宣教師など)になることを願うなら、よくよく自分を吟味するようにと勧めています。



そして、この著書の中では吟味する際の4つの視点が示されています。


 その仕事に対する熱心な願い・そのためにはすべてを捨てて顧みないという欲求があるかどうか?
          
真の牧師の仕事は自己否定で満ちている。
払うべき犠牲が徹底的に計算し尽くされた後にも、静かな、明白な決意として残るものでなければならない。


 適切に教える能力・公の教師としての任務に必要なある程度の特質を備えているか?
          
健全な判断力/充実した経験/上品なマナーと豊かな愛情/
堅実さと勇気/優しさと同情心/適切に治める管理の賜物/
忍耐と不屈の精神/相談相手としての徳性など。


 働きの結果としての回心者があるかどうか?
          
不毛の期間があるとしても、全体として見れば、必ず実があるはずである。
魂を少しも神のみもとにもたらさない者が、神によって遣わされたと考えることは困難である。


 説教が神の民に受け入れられるかどうか?
          
教会の祈り深い判断を通して。
説教を通して教会が教化されないのであるなら、その人の召命には疑問符がつく。



昨今、キリスト教界の教職者の不祥事が伝えられています。
教職者を志す者が自らを正しく見定める誠実さと判断力が問われているように思います。
そして、教職に就いた者は、召命に正しく応答しているかを常に確認する必要があるでしょう。
自戒の意味も込めて、まとめてみました。
随分長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます

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