マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

なんだか心があたたまる

2007-01-16 20:53:08 | 最近の読書
今日、掛川のJさんが送ってくれた本が届いた。
早速、封を開けて読み始めた。



関根一夫著 「いてくれてありがとう」

「なるほど、そうだよ!」とうなずけるばかりでなく、読み進むうちに自分の心が温かくなるような感じ。
なんだかホッとする感覚に包まれる。
とてもいいので、教会のみなさんにも勧めてみようかなと思う。
私たちが忘れがちな大切なことを気付かせてくれるだろう。
まだ途中までしか読んでないけれど、続きが楽しみ。
明日の神学校の小テストの勉強もあるから、続きは明日以降にしよう。

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にぎやかな夕食

2007-01-15 23:21:27 | お客さん
今日は我が家の夕食にお客さん。
K君、H君、Y君、M君、T君。そして、土曜日からステイ中のMさん。
メニューは、キムチ鍋、坦々ゴマ鍋。
やっぱり冬は鍋がいい。
しまった!今日は写真を撮り忘れた・・・

ちょうどその時、Rちゃんとのメールのやりとり。
土曜日のキングレの試合のことで確認。
立川の教会のフットサルチームと試合の予定。
3チームが集まるそう。
今回はキングレから7名の参加。
私も出かける予定。
楽しみにしている。




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神の計画

2007-01-15 22:59:23 | 聖書通読
午後は、教会で聖書とお祈りの時間を過ごした。

水曜日の神学校の小テストの勉強もできた。
旧約通論はエズラ記・ネヘミヤ記・エステル記の通読。
神様の主権を意識させられた。
逆境の中で、より鮮やかな主のご介入。
主は、ご自身の計画に沿って、御業を成し遂げられる。
その計画の下で、それぞれの使命を果たす人々。

主は、ご自身の計画にしたがって、使命を与えてひとりひとりを用いられる。
主の御業が進められていきますように。

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分級の新しいテキスト

2007-01-13 21:29:12 | 教会の風景
礼拝前の分級(一般)では小冊子を使ってきた。
昨年の赴任当初から、いのちのことば社の「信仰」ジョージ・ミュラーを一日分ずつ読んできた。
それがこの前の日曜日で30日分すべて終わった。

今週、次のテキストを取り寄せた。
火曜日の夜に注文して、金曜日の午後には届いた。

同じポケットディボーションシリーズの「聖霊」R.A.トーレイ。
今の私たちにとって必要だと思われたので、これを選んだ。
以前、個人的に一度は読み通したけれど、もう一度じっくり味わいながら読みたい。

聖書は神様が三位一体であると示している。
神様が、父、子、聖霊の三位一体でいらっしゃることは、私たちにとってどういう係わりがあるのかもよく理解していきたい。
分級の時間は非常に短いし、一回に学ぶことは限られているけれど、コツコツ毎週学んでいくことは、きっと役立つだろう。
礼拝前の短時間だとは言え、大切にしていきたい。

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神のあわれみ

2007-01-12 23:44:43 | 教会の風景
I君との洗礼準備の学びも今度で10回目を迎える。
ローマ書を取り上げて、概観している。
あと2回ほどで終える予定。

今日は10・11回分のレジメを作成した。
1回の学びを、約20分ぐらいで終わるように、A4サイズ1枚に収めるのは、結構考えさせられる。
準備する自分にもとても良い学びになっている。
10回目でキーワードになったのは、「神のあわれみ」。

ローマ書9章-11章の中では、神様の救いの計画について教えられている。
神様の救いの計画は、非常に壮大なスケールを持っている。
確かに、聖書の示す「救い」はあなたや私が個人的に体験できるものだ。
しかし一方で、歴史という時間の流れの中で主なる神様が提供してくださっているものだとも言える。
主はかつてアブラハムという人物を選ばれた。
またアブラハムの子孫、イスラエル人らを救いのサンプルとして用いられた。
旧約聖書を読んでいくと、その様子がよく分かる。
選ばれた者でありながら、アブラハムも、その後の人々も度々神に従うことに失敗してきた。
それでも、主は彼らにあわれみを示し続けた。

そのあわれみは、今やイエス・キリストを信じるすべての人に向けられていると聖書は教える。
もともと神に背き、従うことができない人間。
生まれながらにして、すべての人が神から離れている状態にあると聖書は表現している。
神の怒りを受け、裁きを受けるのが当然の状態である。
しかし、そんな私たちが、イエス・キリストのゆえにあわれみを受け、救いを頂けると聖書で約束されている。

「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(9:16)

「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(9:24)

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(10:9-13)

「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」(11:32)


神のあわれみを受けた一人として、心にしっかり受けとめていきたい。
今の自分があるのは、一方的な主のあわれみであることを忘れないでいたい。

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