「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

本の紹介 心が強くなる言葉

2020-11-20 19:44:50 | 本の紹介
中村天風著


気にとまった言葉を選んでみました。



何かがあれば、「ああ、楽しいな」「ああ、うれしいな」と思うようにすればいいんです。

やればできますよ、あなたも。
心持ちをぱっと変えちゃえばいいだけなんだから。まことに人生は、心ひとつのの置きどころなんです。

金だ、家だ、仕事だ、名誉だ、愛だ、って、確かにみんな大切なものではありますが、命あってのものでしょう。それ以外はしょせんは、人生の一部でしかないんですぜ。

すぐ不平不満を言うような、そんなケチな気持ちや心持ちは、海の中なり山の中に捨てちまえ。

どんな場合にも、困った、弱った、情けない、腹が立つ、助けてくれ、なんていう消極的な言葉を、絶対に口にしないことです。

言葉には人生を左右する力があるんです。この自覚こそが人生を勝利にみちびく、最良の武器なんですよ。

「あ、これは消極的だ」って感じたら、だんぜん受け入れない。もう、パッと打ち消しちゃいなさい。

具合が悪いときに具合が悪いと言ったら、具合が悪いのが治るかい?
運命が悪いときでも、「ああ、俺はなんてついてないんだ」って嘆いたら、運命が良くなるかい?

あなた方、学問とか経験でも豊富にするとか、金でもよけいつくれば、人間が気軽に幸福に生きられる、なんて思ってないかい。

苦労したり、悩んだり、人を憎んだり、恐れたり、悲しんでるとき、気持ちいいですか?あんな嫌な気持ちはなかろう。その嫌な気持ちをなぜ心にさせるんだ。喜ばせてやれ。

怒ることがあるから怒るんだ、悲しいことがあるから悲しいんだ、恐れることは恐れるんだ、というようなことを言ってたんじゃ、人生に極楽はこないんですよ。

ためしに、おかしくもなんともないときに、アハハって笑って見てごらん。なんだかおかしくなってくるから。

笑いというものは、苦しみや悩みに疲れる心や体を、「ほどよくこれをもって調和せよ」ということで、人間にだけ与えられた特別のものにほかならなんですよ。

人を憎んだり恨んだりあるいは!中傷したりする人は、自分もまた必ず他の人からそうされるということを忘れてはならない。

目に見えない一つの気体、ぜんぜん感覚できないけれども、とにかく現在の自分を生かしてくれているこの気が自分なんだ。これが信念化されると、生きる力が強くなるんだよ。

この体を自分だと思っちゃいけないんだ。ちょうど、あなた方の体に着ている着物と同じものなんだ。ほんとうの自分に対する生命の着物なんだ。

生きていることを楽しもう。そうすりゃ、治る病なら、黙っていてもすぐ治る。治らない病は、どう思ったって治らないんだから、そのときはしょうがねえじゃないか。

積極的精神状態をつくるということは、誰にでもできることです。





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本の紹介 「運命を拓く」言葉と人生

2020-11-04 19:59:46 | 本の紹介
「運命を拓く」という本の中から、「四章 言葉と人生」について

中村天風著

四章 言葉と人生
中村天風は、明治生まれ。諜報員としても活動。結核を患っていた。旅先で出会ったヒマラヤの聖者についていき、ヒマラヤで修行を始める。
以下要約。
朝、ヒマラヤで修行の先生に、How do you do,today ?と聞かれ、こういう病気を持っていますし、ここちよい気持ちでは目が覚めません。熱があるように感じ、頭は思いし、、、とネガティブな返事をする。すると、ダメ出し。そんなことを言っていると、愉快な気持ちになれんだろう。嬉しいです、楽しいです、ありがたいですと言ったほうが心地よい感じがするだろう。潜在意識がネガティブなら実在意識も同じような気持ちになると同時に、神経系統の生活機能も悪くなる。生きる力が、言葉の良し悪しによって、良くもなるし、悪くもなる。
(天風の振り返りは終わり)
人生というものは言葉で哲学化され、科学化されている。すなわち言葉は人生を左右する力がある。言葉には常に慎重に注意を払い、積極的以外の言葉は使わないように心がけるべき。言葉は人生に大きく影響する暗示となる。

痛いときは痛いでしょうがないが、痛くて仕方がないとか、もう駄目だとか、不要な付け足しをして消極的になってはいけない。(ピンチなときにポジティブな言葉を発すると、脳をだますという効果があり、心地よい気持ちになれる。みたいなことをみうらじゅん氏も言っていますね)

ポジティブな言葉を使うと、精神的にも良いし、健康にも良い。たとえ、ネガティブな状況にあったとしても。

テニスの松岡修造は、天風の教えを実践しているひとりのようです。

今回は、「四章 言葉と人生」についてのみ。
余力ができてくれば、別の章も追々追加するかも。



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本の紹介 「こだわらない練習」住む場所にこだわらない

2020-10-30 16:30:50 | 本の紹介
小池龍之介著 僧侶

住む場所にこだわらない という章より

どこに住むかこだわらない。
今のお寺でもある住居は、静か、夏涼しい、虫が多すぎる、アクセスが悪すぎる、逆にアクセスが良すぎると悩ましいという思いもしたこともある。
以前、2008年頃は、定住せず、瞑想三昧、修行。世田谷豪徳寺近くのマンスリーで2ヶ月ほど好意で住まわせてもらった。どこに住むかはどうでも良かった。その後同じ町で賃貸を探し、おんぼろアパートにした。部屋はカビがあり、線路が近く、しょっちゅうカンカンの音。お隣さんの笑い声、ケンカの声、テレビの音がいつも聞こえていた。けれども修行に専念していて五感に触れる刺激に反応しない「捨」の訓練を受けていた自分にとっては、それらは全く気にならなかった。学生時代を思い起こすと、隣のテレビの音に過敏に反応して、深夜なのにこの音量でうるさいと、腹をたてて眠れなかったこともあったので、自分自身の変化を面白く思ったくらい。
うるさくてむかつく音、という実体が存在するわけではなく、あくまでムカつきたいという煩悩のエネルギーが自分の中で働くからこそ、音をうるさいと感じるだけだったのだなあ。
私たちの心は、快適さに甘やかされると弱くなるし、逆に今の自分には耐えられない苦行だと、ストレスにさらされて、心が育つどころかいじけてしまいます。
中道を歩むのが仏道。住む環境が悪すぎると、苦行になりノイローゼになるかのしれない。逆に快適すぎると、こだわりで縛りつけ甘やかされる。
ほどよいさじ加減で、何点かは望む快適さは満たしつつ、これくらいなら耐えられそうくらいのアクセスが悪いとか、虫が多いとかの不便、不満に挑戦してみることです。
不便さ、悪い点も楽しめるようになり、こだわりを少なくすることに成功したら、もっと自由に他の場所に移り住むことができる。自分が変われば、いかなる場所でも中道を歩んでいると感じられるかもしれない。



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本の紹介 超訳 仏陀の言葉

2020-10-22 19:36:52 | 本の紹介
白鳥春彦著

目に留まったフレーズをあげました。



延命しない
人は長くいきようと必死になる。けれども
物事を正しく見たものは、みずからの命にも執着がない。

目から心に移さない
目に入ったもの耳で聞こえたもので自分の心や情を動かさないように、そうすれば苦しみや煩悩の種になることはない。

業がめぐる
他人に対して行ったことがそのまま自分に帰ってくる。

賢者の楽しみ
孤独を喜べ。賢者はみな、そうしている。

自己を楽しめ
外に楽しみを求めるな。自己を楽しめ。自分の変化と成長を楽しめ。

みずからの心を見よ
みずからの心を見よ。自分の心が何にとらわれているのか、どんな感情に染まっているのか。世間的な憂い、貪欲がないか、よく見つめよ。

瞑想の深みに達する人の安楽
瞑想の深みに達する人はこのうえない楽しみを味わう。この楽しみは娯楽などによってもたらすような楽しみではない。

執着しなければ悲しみは生まれない
これは自分が持っていたものが朽ちるから悲しいのだ。

満足を得るために
満ち足りた気分にひたされたければ、欲望を棄てるしかない。あれが欲しい、こうだったららいいのに、もっと儲かるはずだったのに、もっと高級なものを、、、そこに終わりはない。欲を棄てれば代わりに満足が訪れる。

悔いてはならない
過去の事柄を思い返しくよくよ後悔してはならない。自己の目覚めを妨げる強い執着にほかならないのだから。

信仰
信じることもまた執着。自分の信仰すら捨て去れ。

生き方
よい友を持て。繁華な町の喧騒から離れ、人のいない静かな場所で暮らせ。飲み食いはつつましい量で満足せよ。着るもの、その他のものに好みや欲を持たぬように。世間の人々と同じであってはならない。

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本の紹介 脳が若返るメモする習慣

2020-10-11 20:21:27 | 本の紹介
医学博士・作家 米山公啓著


主に見出しをあげました。

ノートは一冊、日時を書き込む。
大きさはバイブルサイズ。
薄いノートのほうが達成感あり。
長い文章はパソコンへ。
一日のうち、感動したことを書く。よかったことを書く。失敗はできるだけ簡単に書く。否定されたことを肯定的に書き換える。
ノートに書くことがプラス思考の訓練になる。
買い物記録をつける。値段、なぜ買ったかも書く。
今日食べたものをメモする。
健康日記をつける。
ブログで書く。
感動したことを書く。
今年のマイブームを書く。(今月でも)
俳句、短歌、川柳、詩を書く。
絵日記を書いてみる。
人間関係の図を書く。
将来の夢の絵を描く。
ことわざ、格言、名言を書く。
思いついた冗談を書く。
たまには、外国語で日記やメモを書く。
アイデア日記をつける。
実現可能性50%の大きな目標を書く。
書いた目標をフィードバックする。
いまやりたいことを書く(明日でいいこと、週末まででいいこと、月末まででいいこと、年内でいいこと)。
いつか実現したいことを書く(いつなのか、願望の強さはどのくらいか)。
読んだ本の要点を書く。
言いたいことをA4の紙一枚にまとめる(テレビドラマ、スポーツ評論など対象はなんでもよい)。
短い時間でアイデアを100個出す。
自分史を書く。
納得できないことを書く。
失敗リストを作り、対策を書く。
必要かな?と考えるよりもまずは書く。
書いたものを本にする。
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本の紹介 ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門

2020-10-10 18:57:38 | 本の紹介
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門
著者ウィリアム・ハート

SNゴエンカは、インド系のミャンマー人。
サヤジ・ウ・バ・キンという人に師事し、瞑想を習った。
後にインドに移住し、瞑想を極める。
著者のウィリアム・ハートはゴエンカに師事した。
この本は、ゴエンカ氏の講話、Q&Aをベースに、ヴィパッサナー瞑想を著者がまとめた本。
ヴィパッサナー瞑想は、ブッダの説く瞑想法と合致する。

瞑想は読むものでなく、実践するもの。この本はヴィパッサナー瞑想の独習書ではない。
実践するには、例えば日本ヴィパッサナー協会が主催するヴィパッサナー瞑想10日間コースをおすすめする。質問のとき以外は私語禁止、スマホは使用禁止。瞑想はきついが、コースの終わりには、精神的に健康になる。

1章 真理の探究
賢者の考えを自分でも理解して実践する。正しい、幸福になると判断したら、それを実践し続ければいい。(ブッダ)

真理=自然の法則=ダンマ(パーリ語)

ブッダの教えを修行するためには、仏教徒にならなくてもよい。呼び名などどうでもよい。 ダンマは実践して初めて結果が出る。瞑想を重ねるに従って、毎日の暮らしがより幸福で、おだやかで、平和になる。

2章 出発点
現在の科学者たちは、物質世界の究極の真理を追究した。精密な機器により理論を実証したのと対照的に、ブッダは苦から自由になる道を求めて真理を追究した。ブッダが発見した真理は、頭でしたものだけではなく、自分自身が直接体験したもの。

ブッダは心の観察をした。4つのプロセスを発見した。
心:意識→知覚→感覚→反応。
意識:無差別に感じ取り気づく。価値判断はない。
知覚:意識がとらえたものを読み取り、好き嫌いの判断をする。
感覚:データが識別され、価値判断が下されると、快・不快が生まれる。
反応:快なら、それが気に入り、不快ならそれを止めようとする。

これら4つのプロセスは、スピードが速く、これを次々に繰り返していく。これが、誰もが関心を持っている「自分」というものの現実。

Q&Aより、
・心は脳の働きではないのですか?→西洋では、心は頭の中にだけあると考えられている。それは間違い。全身に心があります。からだ全体にです。
・何かを感じとる「わたし」という存在があるはずだと思われるかもしれません。けれども
・瞑想を続けていくと、自我の溶解を体験するときがきます。
・あなたを苦しめているのは、他の誰でももありません。自分で自分を苦しめているのです。
・ブッダは決して宗教を説かなかった。ダンマを説いたのです。

3章 苦の直接原因
人生で遭遇するものは、すべて自分の行為の結果(因果の法則)。苦をもたらすような行為をした自分に責任がある。

行為には三種類あります。からだによるもの、言葉によるもの、心によるもの。
悪意があってもからだを使って人を傷つけなければよい、言葉を使って人を傷つけなければよい、というものではない。(心の行為(思い)が悪いと、因果の法則で結局自分が苦しむ)
純粋な心で話したり行動すれば、幸福がついて離れない。(ブッダ)

心の反応の時点で能動的になり、欲望、反発、好き嫌いという思いが生じる。この反応が因果の連鎖を引き起こす。あらゆる苦は反応より生じる。反応が止滅すれば、苦も止滅する。
ほんとうの苦の原因、それは心の反応である。(ブッダ)

好き嫌いの反応を繰り返していくうちに、反応はさらに強くなり、渇望や嫌悪に成長する(渇き=タンハー)。
ないものをどこまでも欲しがる心のクセが人にはある。欲求や不満が強くなればなるほど、多くの苦をもたらす。

Q&Aより、
・苦しみに執着しているうちは、苦しみから解放されることはない。
怒りという感情を客観的に観察できれば、怒りから解放される。
・必要な時に自分を冷静に観察できるように、心を鍛えるのです。瞑想は心を鍛えます。
冷静に自分を観察することができるようになれば、困難な状況でも心はぐらつかなくなります。

4章 問題の根
苦の原因は執着である。
執着の種類、
・官能的な満足を求めるくせへの執着
例えば麻薬。渇望することが中毒となりやめられなくなる。
・自分の意見や信念
・宗教の形態や儀式
・「わたしのもの」
・「わたし」

執着の原因は、好き嫌いという一瞬の心の反応。好き嫌いの心の反応が繰り返されるうちに、次第に執着は強くなってくる。
苦は無知から始まる。苦の原因になる心の反応。何にでも反応してしまう心のくせである。では、なぜ反応するのか。それは自分のほんとうの姿に無知だからだ。
ブッダはどうしたら苦を止めることができるかと考えた。因果の連鎖を見て、苦が生じるプロセスを分析した。(詳細は割愛)
無知がなくなれば盲目的な反応が止まり、それを発端とした苦は止滅する。
反応は、苦をもたらすが、反応するのは自分の責任である。そのことがわかれば、苦を取り除く方法も自然にわかってくるだろう。

5章 道徳の訓練
ブッダは八正道を説いた。(八正道と聞けばあいまいな説明を聞いたことがあるが、実はブッダが説いたのはヴィパッサナー瞑想に至るまでの各段階での教えを説いていたという記述になっている)
八正道は、次の三段階に分類される。
シーラと呼ばれる段階、道徳(悪い行為をつつしむ)の訓練…5章
サマーディと呼ばれる段階、精神集中の訓練(自分の心のコントロール)…6章
パンニャーと呼ばれる段階、知恵の訓練(自己の本質を見抜く力をつける)…7章

(この章では道徳の訓練について)
悪い行為、言葉は、人を傷つけるだけでなく、自分も傷つき、不幸が自分にも跳ね返ってくる。ひとのためだけではなく、自分のためにも悪い行為、言葉はつつしむ。苦からの解放というゴールに向かうのに、悪い行為、言葉に伴って生まれる渇望、嫌悪、無知を引き起こしてしまうのは、ゴールからとおざかってしまう。
八正道のうち、シーラでは、正しい言葉、正しい行為、正しい生活が該当する。
(この3つの説明は、道徳を習っている日本人にはあらためて書く必要はないので割愛)

6章 精神集中の訓練
問題は心の中にある。心の次元で対処しなければならない。平たく言えば、瞑想で対処する。瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と知恵(パンニャー)の訓練の2つの意味がある。
精神集中では、八正道のうち、正しい努力、正しい気づき、正しい精神集中の3つが該当する。
正しい努力:
瞑想では、まず楽な姿勢で座り、背中を伸ばし、目を閉じる。自分の呼吸に意識をおく。鼻の穴から入ってくる息、出てゆく息、そこに神経を集中させる。瞑想がどれだけ難しいかはやってみるとすぐわかる。呼吸に意識をおこうとしても、過去の記憶、将来の計画、願望、不安などがでてくる。そのどれかに注意を奪われ、かなり長い間呼吸のことを完全に忘れてしまう。また、瞑想に入る。だが、心は知らないうちにどこかにさまよう。呼吸に意識をおく瞑想を始めたとたん、こころというものが、いかに気ままで手に負えないか、いやというほど思い知らされる。これが心にしみついたクセなのである。私たちはなんとかして、心のクセを取り除き、現実の世界を生きていかなければならない。心がどこかにさまよったら、何度も何度も心を呼吸に引き戻してやる。にっこり笑って、力まないで、落ち込まないで、この訓練を繰り返していく。これが正しい努力である。

正しい気づき:
呼吸を観察することは、正しい気づきの修行にもなる。苦は無知から生じる。過去の不快な体験を思い出し、未来への願望や不安をいだいている。「いま」という瞬間が一番大切なのに。瞑想によりいまこの瞬間の自分の現実に意識を執着させることが必要になる。呼吸へ意識をおけば、いまこの瞬間に気づいていることができる。
例えば精神集中しやすいように、意識的に強めの呼吸をする。確実に呼吸に意識できるようになったら、今度は自然な呼吸に戻すと良い。呼吸に集中できている間は、心は、渇望、嫌悪、無知から解放されている。

正しい精神集中:
呼吸に集中することにより、いまこの瞬間に気づく。この気づきを一瞬、一瞬長く持ちこたえること。それが正しい精神集中である。

実際に瞑想してみると、呼吸に意識をおくことが、いかに難しいかがわかる。知らないうちに心はどこかへ行ってしまう。困難にぶつかっても落ち込んだり、弱気になってはいけない。長年かかってしみついた心のクセだ。それを取るには時間がかかる。何度も瞑想しているうちに、雑念がわいても、すばやく呼吸に意識をもどすことができるようになる。呼吸を忘れている時間が少しづつ短くなっていく。

Q&Aより、
呼吸に意識をおく修行をするとき、息を数えたり、息を吐くとき「出る」、息を吸うとき「入る」などと言っても構いませんか?
→言葉を繰り返すのはよくありません。呼吸のたびに言葉を繰り返していると、そのうち言葉だけが一人歩きをはじめ、呼吸のことなどすっかり忘れてしまうでしょう?ただ、呼吸だけに意識をおくようにします。

7章 知恵の訓練
シーラ(道徳の訓練)、サマーディ(精神集中の訓練)はブッダが悟りを開く前からあり、どの宗教でもある。一つの言葉やマントラを唱えて精神集中を行うと、それなりに効果はある。心は安らぐ。しかし、このシーラ、サマーディだけでは表面意識にしか作用しない。
無意識の領域に心のクセがある限り、苦は生じる。精神集中の修行を行ってもブッダは解脱したとは考えなかった。問題の根を取り除くためには、心の深層に入り込み、不純物をその発生時点で処理する必要がある。ブッダは、その方法を発見し、悟りを開いた。それが知恵の訓練(パンニャー)である。これは、ヴィパッサナーバーヴァナーとも呼ばれ、自己の本質を見抜く力をつけることである。苦の原因を知って苦を取り除く、これがブッダが発見した瞑想法なのだ。知恵をはぐくむ修行を行い、自分の内なる現実を見極め、無知と執着から自由になる。八正道のうち、正しい考えと正しい理解である。

正しい考え:
ヴィパッサナー瞑想の前に雑念が消えていなければならないということはない。雑念がわいてきても、気づきを一瞬一瞬持ちこたえていけば十分である。雑念が浮かんでも徐々に思考のパターンの質が変化する。呼吸に意識をおくことにより、憎悪や渇望がだんだん弱くなる。少なくとも表面意識のレベルでは心が安らぐ。次の段階(正しい理解)に進む準備が整う。

正しい理解:
正しい理解、これが真の知恵である。真理は頭で考えればいいというものではない。自分自身で体験し、理解しなければならない。
知恵には三種類ある。
一つ目の知恵は、借りた知恵。本を読んだり、話を聞いたりして、人から借りた知恵である。例えば指導者から信ずるものは必ず天国に行けると言われ、無知、渇望、恐怖心から、その理念を受け入れる。
二つ目の知恵は、人から学んだことを自分の頭で理解した知恵。自分の頭で理解したにすぎない。
三つ目の知恵は、自分が実際に体験し、直接体得した知恵。これこそが生きた知恵であり、心の本質をゆさぶり、人生を転換させる真の知恵にほかならない。自ら真理を直接体験することにより、心が解放されるのである。真理を直接悟る道、体験的な知恵を得る方法、ヴィパッサナーバーヴァナーの瞑想法にほかならない。ヴィパッサナーバーヴァナーは、広く
ヴィパッサナー瞑想法と呼ばれる。この瞑想法は、自分のからだの感覚に注意を向けその感覚を順を追って客観的に観察していくものである。

からだの感覚は心とよく結びついており、呼吸と同様、現在の心の状態をそのまま反映する。(例えば、恐怖を感じているときはブルブル震えるだろうし、興奮しているときは心臓がバクバクなるだろうし、緊張しているときはからだが固くなるだろうし、、、)
普段はほとんど感じ取れないような微細な感覚にまで気づく必要がある。

呼吸に意識をおく瞑想のときは、自然な呼吸を観察し、呼吸をコントロールしない。それと同じで、ヴィパッサナー瞑想でも自然なからだの感覚を観察する。足元から頭まで、左の手足から右の手足へと順序よく、からだに意識を巡らせていく。そのとき、強い特別な感覚だけを追いかけたりしてはいけない。何か変わった感覚を探し求めることはしてはならない。
たんたんと、ふつうのからだの感覚を観察していく。
はじめは感覚を感じる部分と感じない部分がでてくる。気づきの力が足りないので、強い感覚しか感じ取れない。何度も何度もからだのすみずみまで順序よく巡らせていく。ある感覚のところに長時間留まったり、ある感覚のところを避けようとしてはいけない。瞑想を続けていくと、やがて順序全身の感覚をくまなく感じ取れるようになる。ヴィパッサナー瞑想を続けていき、いろんな考えが浮かんできて、心やからだに不快な感覚が生じ、続けられなくなったら、もう一度呼吸瞑想にもどり、心を静め意識をとぎすます。辛抱強く、落胆せず、もう一度精神を集中させる。心地悪い感覚がどれほど耐え難くても、心地よい感覚がどれほど甘美であっても、修行を止めてはいけない。
根気よく瞑想を続けていくと、やがて感覚が絶えず変化することに気づく。精神と物質は絶えず変化していることがわかる(無常)。そして無常の現実を自分のからだでありのまま体験することができる。それから、わたしとわたしのものと呼べる不変のものなど実在しない、わたしの正体は、たえず変化するプロセスの集合体にしかすぎない、と気ずく。(無我)
ただ現象はたんたんと起こり、たえず変化していく。自分の力ではどうにもならない。そこで、これがわたしである。これがわたしのものであるなどと言って、何かにしがみつくと、必ず不幸になるという事実が明らかになる。無常なもの、幻のようなもの、自分の力ではどうにもならないもの、そんなものに執着したらそれこそが苦である。このことがはっきり理解できる。それも誰かに教えてもらうのではなく、自分のからだでその事実を体験し、理屈抜きに理解できるのである。

それでは、どうしたら不幸にならずに済むのだろう。どうしたら苦のない人生を送れるのだろう。ただ観察し、反応しなければいいのである。これはいいが、あれはダメなどと言わず、心の平静さ、心のバランスを保ち、すべての現象を、ただ淡々と見つめていけば良い。

からだの痛みを感じているとき、瞑想により、痛みそのものが変化するのがわかるに違いない。どんな痛みも一瞬一瞬変化し、消え去り、また生まれ、また変化していく。この事実を自分のからだで体験的に理解したら、もう痛みに圧倒されたり、振りまわされることはなくなる。

苦は無知(自己の真実に対する無知)からはじまる。わたしたちの心は、すべての感覚にやみくもに反応してしまう。好きや嫌い、渇望や嫌悪の思いで反応する。反応することによって、現在も将来も、もっぱら苦しむことになる。すべての感覚が好き嫌いを生じる。感覚が生じた瞬間、無意識に好き嫌いの反応が起こり、それが繰り返されて強くなり、渇望や嫌悪になる。さらにそれが執着となり、いま、そして将来、不幸をまねく。この反応が無意識のクセとなり、ただ、もう機械的に繰り返される。
ところが、ヴィパッサナー瞑想の修行を行うと、からだの感覚すべてに気づくことができる。心の静けさが深まり、むやみに反応しなくなる。たんたんと感覚を見つめ、好き嫌いも、渇望も、嫌悪も、執着もなくなる。もう新たに反応することがなくなる。反応が止まれば、苦の原因がなくなる。

ブッダは、すべて作られたものは無常であるという。心もからだも宇宙にあるもの全てが無常であるというのだ。ヴィパッサナー瞑想を行い、この真理をありのまま見つめ、体験的に理解したとき、苦は消えて無くなる。

ヴィパッサナー瞑想の最大の目標は、いかに反応しないでいるかを学ぶことである。反応しないでいるという能力には、たいへんな価値がある。からだの感覚に気づき、同時に心の平静さを保つことができれば、心は自由になる。
瞑想の最初の頃は、そういう瞬間はほんのわずかしかおとずれないだろう。古いクセが取れず、しょっちゅう感覚に反応してしまうだろう。しかし、何度も何度も瞑想していると、そういう瞬間がたくさんくるようになる。やがて、古い反応グセが取れ、心がずっと安らいでいるようになる。こうして苦を止めることができるのである。

Q&Aより、
心とからだの現実をあますことなく、散策するために、からだに起こっていることをすべて感じとる必要があります。感じ取れないところがあってはなりません。あらゆる感覚を観察する能力を身につけなければなりません。決まった順序で、からだに意識をめぐらせなければなりません。

からだのほんとうの感覚かどうか怪しいと思ったら、二つ三つ命令を出してみます。命令に従って感覚が変化するようならば、その感覚はほんものとは言えません。そのときは、はじめから呼吸の観察にもどしてください。自分の命令に従わない感覚は、ほんものです。

所感他
この7章までで、ポイントは出ているようにも見えますので、
8章 気づきと心の平静さ
9章 ゴール
10章 豊かな人生の技法
は割愛します。

以前、東大出身の草薙氏が書いた反応しない練習という本を紹介しましたが、
ベースになっている書は、本書のように見えます。
本書は、翻訳した本ですが、その割には比較的読みやすくなっている本と思います。

自分にとって、理論でわかっていても、実践でそれが体験できるのかが大いなる課題と感じます。
瞑想のコツはそれなりに書かれていますが、この書の最初に、この本は独習書ではないと書かれている通り、それなりの指導により瞑想の積み重ねが必要かもしれません。より早くマスターに近づけたければ、10日間合宿に参加するというのはありかもしれません。

同じヴィパッサナー瞑想でも、日本テーラワーダ仏教協会で見られる、実況中継、歩き瞑想などの表現がありませんので、実践については少し系統が違うように思います。ただ、理論は違いがあまり無いようにも見えます。
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本の紹介 自分を変える気づきの瞑想法

2020-09-29 06:55:54 | 本の紹介
アルボムッレスマナサーラ著

日本でヴィッパッサナー瞑想の系統は、ゴエンカ氏関連の日本ヴィッパッサナー協会、この著者関連の日本テーラワーダ仏教協会の2大系統という認識でいます。その他はマインドフルネスから来ているライトなボディースキャン瞑想というのもあるようです。

この著書から、主に実践に関するところをピックアップしました。瞑想の動作について文字で書いてもとても伝わりにくいと思いましたので、動画のリンクを張りました(楽しました)。
後でこのブログの内容を、修正したり加筆したりするかと思いますが、そのときは更新日を新しくしていきます。



第1部 瞑想の力
(実践ではなく理論。割愛)

第2部 苦しみの原因
(実践ではなく理論。割愛)

第3部 慈悲の瞑想
(割愛)

第4部 智慧の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)
(最初に理論)
ヴィパッサナー瞑想のヴィパッサナーとは、パーリ語で、「明確に観察する」。観察する対象は心。
ヴィパッサナーは、心の科学です。

私たちは、始終、思考しています。大部分、妄想、雑念、主観、感情と言い換えてもよい。
私たちは、無駄な思考(もちろん有意義な思考はある)をすることで時間がなくなり、エネルギーを浪費している。また、
過去と将来に思考をめぐらせ、今を生きようとしていない。

ヴィパッサナー瞑想の試みは、一切の思考を停止するチャレンジです。無駄な思考が減れば、妄想、悩みが減ります。

ヴィパッサナー瞑想は、厳しい瞑想法です。そこは覚悟して下さい。

瞑想の目的は、執着を捨てることです。ご利益のことは忘れて下さい。しかし、正しく実践すれば、自分が期待しているよりもはるかによいご利益がおまけでついてきます。

修行するくらいの覚悟で実践に取り組んで下さい。

5つのポイント
1、ストップモーション
2、身体の感覚を感じる
3、ノンストップの実況中継
4、スローモーション
5、背筋を伸ばす

ストップモーション
体を止めること。死体を演じるようなイメージ。目は閉じて、呼吸はほおっておく。動いてはダメ。楽じゃないので頑張る必要がある。

身体の感覚を感じる
身体を全く動かさない状態で、身体のあちこちの感覚を感じとる。感じてもほおってておく。

ノンストップの実況中継
思考をストップさせるための実況中継。言葉で自分がしていることを実況中継すると、思考ができない状態になる。すき間から思考が出ないように、かなり勢いよく実況中継する。体の感覚を実況中継するとき、主語が入る表現はダメ。かゆい、痛いとかはダメ。かゆみ、痛みなどでOK。

スローモーション
動作をスローモーションで行う。ポイントは、以下のとおり。
動きを目で見ない。スピードを一定にする。スローモーションと同時にすき間なく実況中継する。例えば、手をあげるときは、「上げる、上げる、上げる、上げる」と忙しく実況中継する。思考を入り込ませないようにする。

背筋を伸ばす
怠けをなくすため。背筋を伸ばすと怠けが起きない。

・立つ瞑想
座ってから立ち上がるまでの動作をワンセット10分~15分をかけて行う。
動画リンク:
https://www.youtube.com/watch?v=LG_uRFWOh10&t=3s
(ワンセット10分もかけるというのは素人目には厳しそう)

・歩く瞑想
動画リンク:
https://www.youtube.com/watch?v=zx-81iemc-8
(動作は単純。但し1時間をかけるというので、素人目には根気がかなりいります。しかし、この瞑想は初心者向けらしく、この瞑想がポイントになるような記述です。)

・座る瞑想
動画リンク:
https://www.youtube.com/watch?v=PW-X73fGjLI
(これもワンセット30分もかける)

・食べる瞑想
1時間ほどかける。内容は割愛。


1日のヴィパッサナー瞑想プログラム例
立つ瞑想10分
歩く瞑想1時間
立つ瞑想10分
座る瞑想30分
立つ瞑想10分
歩く瞑想1時間
上記に加えて、食べる瞑想なども行う。

(まだまだ、まとめ足りませんが現時点でこんな感じでまとめました。)



所感
本流のヴィパッサナー瞑想の実践は、一般人にはハードル設定が高いという印象。
それくらいに一生懸命やらないと、執着をなくすことは、たやすくないということのよう。
マインドフルネス系統などでは、横になって瞑想することもあるが、この本の中の瞑想では、横になって行うというものはない。それだけ楽じゃないんだということのよう。


最後に、
ヴィパッサナー瞑想を簡潔に解説してライトで取っつきやすい方法を示してくれている本がある。
「マインドフルネス瞑想がよくわかる本(講談社)」の中で要約され、挿し絵が入り、分かりやすい内容になっている。こちらの方は、瞑想にかける時間がかなり少なめに書かれている。例えば、歩く瞑想は、5~10分程度と書かれているが、本書では1時間。引用元は本書のようなので、本書の方が正しいのだろうけど、初心者がとりあえず始めやすいのは、講談社の要約した本のほうではある。


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本の紹介 お寺の掲示板

2020-09-27 09:19:20 | 本の紹介
江田智昭著、浄土真宗の僧侶
新潮社


お寺の掲示板の紹介。ユニークな言葉が書かれているのを写真で紹介し、その解説を筆者が載せている。

たくさん載せると、
ネタバレして、よくないので、
2つだけ紹介します。

その1:
つくられた幸せで
インスタ疲れ
本当の幸せは
写真ばえしない
日常の
温かさの中に
光っている

その2:
仏教ハンパないって





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本の紹介 ぶつぞう入門

2020-09-16 10:20:16 | 本の紹介
柴門ふみ著

見仏巡り記。奈良、京都、鎌倉、東北などの仏像を巡っている。みうらじゅん、いとうせいこうの見仏記に匹敵するくらいの内容かも。
文章もおもしろい。
漫画家でもあり、挿し絵もいい感じ。
入門とあるが、著者自体は、そこそこ仏像に精通しており、読者の入門書として書かれた本である。

本の中で紹介されていた仏像のうち、今まで自分が見ていない気になる仏像をピックアップしてみた。
以下、

葛井寺 千手観音
観心寺 如意輪観音 色っぽい観音
千本釈迦堂 准胝観音
兵庫小野市浄土寺 阿弥陀三尊 阿弥陀5.3m
神護寺 薬師如来
東北 恵隆寺 千手観音7.4m
東北 成島毘沙門堂 毘沙門天 
壽宝寺(じゅほうじ) 千手千眼観音
京田辺の観音寺 十一面観音


筆者が仏像ベストテンをあげていた。
1円成寺 大日如来
2聖林寺 十一面観音
3東大寺戒壇院 広目天
4興福寺 阿修羅
5三十三間堂 千手観音と二十八部衆
6観心寺 如意輪観音
7東大寺法華堂 月光菩薩
8興福寺北円堂 無著世親 むじゃくせしん
9六波羅蜜寺 空也上人
10兵庫小野市浄土寺 阿弥陀三尊

自分も、インスパイアされ、そのうち、
ベストテンをあげてみたい。


最後に、本の中で、気になった表現がある。
「仏像がある」は個人的には、「仏像がいる」のほうが自然な感じがした。
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本の紹介 読んだけどお勧めしない本

2020-09-15 09:59:10 | 本の紹介
■わたしも四国のお遍路さん
平野恵理子著(イラストレーター、エッセイスト)
お寺ごとの記述も1~3ページ程度書かれている。資料からそのまま書き写した能書きの記述がなく、いい印象。挿し絵があってこれもよいところ。
ただ、お寺の方針、お寺以外のこともディスる記述があったりでマイナス点。
先入観として、遍路は書籍にするなら徒歩が多いというイメージだが、車、バス、電車も使ってとまえがきに記載。
20番札所までの記述を読んだが、
徒歩で回った記述はなく、車での移動でしかなかったようす。やはり、遍路の醍醐味は徒歩だと思う。
出版にあたっての企画を兼ねた遍路旅という雰囲気で、ゆるい感じはする。
同行者は他に2名いたようだ。編集者とかだろうか。
とりあえず、20番以降の記述は、興味があるお寺、88番大窪寺、満願時の1番霊山寺、高野山のみ読んだ。

■幸せを考える100の言葉
斎藤茂太著、精神科医・医学博士
偉人の話、自分の体験談をまじえながらの書き物であったが、自分が既に認知している内容だったり、特に共感できる点は少ない。
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