アルボムッレスマナサーラ著
執着の捨て方
はじめに
悩み事は全て執着から生まれる。手放したくないという欲があるから執着が生まれる。
序章
執着は生まれたときから。お腹空いた。ご飯が食べたい。のどが乾いた。水が飲みたい。
大人になるともっと増殖。若さ、健康は失われていく。→若いままでいたい。もっと健康でいたい。仕事、お金、車、、、もっと得たい。欲はどんどん大きくなる。不幸と感じるから、理性で制御すべきなのだが。
自分は○○が足りない。○○が欲しい。家を買って、結婚して、部長になったら幸せ。
仕事ができないと不幸。家族がないと不幸。→物、心の執着は捨てるべき。不幸と感じ、みじめな人生になるから。
執着を捨てる。
世の中は無常。自分も、家族も、仕事も、若さも変化していく。捨てたくないとふんばっても、捨てざるをえない。捨てられない、捨てたくないという感情の支配を止める。
究極のこととして、いずれ死ぬので、生き続けることを手放す必要がある。捨てる必要がある。「捨てる」とは、仏教では「いさぎよく捨てる訓練をする」という意味です。捨てる訓練により、人間は成長します。執着を捨てることは、つらいこと、怖いことではない。執着を捨てること=幸せ=不幸(苦しみ、悩み)を無くすこと。
執着の種類は4つ。
1.欲への執着 2.見解への執着 3.儀式・儀礼への執着 4.我論への執着
1章 物と心(欲)を捨てる
欲とは、五感を刺激するもの。食べ物、着るもの、お金、名誉、家、車、、、。
五感を刺激することで生まれる心(○○したい。○○したくない)も含まれる。
渇愛は、満たしても満たしても満足しない心の渇き。○○したい、○○したくないも渇愛。
渇愛により執着が生まれる。
どうすれば執着が捨てられるか。→この世に存在するものは、ただそこに存在しているだけと受け止める。美しいとか、良いとか考えず放っておく。感情を手放す。
(ケースバイケースで執着の捨て方の具体例を示しているが割愛)
(章の最後に瞑想による実践方法が書かれていた。サマタ瞑想。欲への執着を最短で捨てられる方法と記されているが、この本ではより具体的な記述はない)
サマタ瞑想は、物から起こった感覚を、ただ感覚として認識する訓練。五感に情報が触れても、サマタ瞑想により、心がゆるがない状態になる(これがサマーディという状態)
慈悲の瞑想をブッダは推薦している。慈悲の瞑想は、自分を含む全ての生命が平等であると心にインプットするプログラム。生命はエゴイスト。自分が一番大事。それ以外はそれほど大事でないという思いを無くするためのもの。この瞑想も執着を捨てるための訓練のひとつ。
2章 意見を捨てる
欲への執着よりも強力なのが、見解への執着。見解とは自分の意見。自分は、自分の意見は正しいと思う。他人の意見と対立することがある。正しいと思っているのは、あくまで自分の意見。自分の意見を否定されると、自分そのものが否定されている気持ちになる。意見は日々変わるもの。正しいと思う意見は、日々更新していくとよい。
意見というものは、「執着に値するものは何ひとつ存在しない」というのが事実。
(他人と意見をぶつけあっても自分の意見を通す必要なんかない。)
3章 儀式(・儀礼)を捨てる
儀式への執着は、欲、見解への執着よりもさらに手強い執着。
脳は習慣が大好き。人はそれまでとは全く違うやり方をしたくない。儀式に従じるべきと考える。従じたほうが楽でもある。この儀式を行っていれば自分も幸せになれるという執着が強くなる。儀式に執着している間は、人間はみじんも成長しません。
朝1時間もお祈りをあげるとか、断食するとかしても、天国へ行ける保証はない。時間のムダ。成長が止まるというだけならまだしも、儀式にとらわれた人は、人を殺したり、戦争をする。
では、無宗教であれば儀式の束縛から自由でいられるでしょうか。宗教には興味がない。自分は無神論者だという人がたくさんいます。
そういう人も、死者を位牌という形で仏壇に飾って拝んでいますし、お墓を拝んでいます。
これも宗教です。人が死んだらお墓を建てなくてはいけない。お墓を持ったら、お参りに行かなければならない。宗教と思っていないかもしれませんが、そういうものだと頭から思い込んで、疑いの余地なくやっていること自体、宗教という儀式に縛られている。日本の中に根ざしている宗教的なしきたりにそって、行動しているのです。
4章 我論を捨てる
我論=自分がいるという思い込み。
みんな誰でも私がいると思い込んでいますが、「私」「自我」があるとは、科学的に証明されていません。私というのは幻覚かもしれません。私と思い込んでいるものは、実は全て無常で変化し続け、実体がない可能性がある。自分はいるという我論があるため、すべての執着が生まれ、すべての苦しみを作っている。
錯覚を発見する方法に、ヴィパッサナー瞑想がある。
高いレベルの集中力でありのままに自分を観察すると、自分がいるという実感が薄くなる。
怒り、欲も薄くなる。
悩み苦しみが現れるたびに、これは自我の錯覚のせいで起きたなあと確認すれば、気持ちが楽になり、問題が解決します。自我の錯覚を引き起こす原因は、感覚です。観察を実践する人は、感覚が無常、無我であることを発見する。
欲への執着はサマタ瞑想で解決できます。
欲への執着、見解への執着、儀式への執着、我論への執着のすべてをなくす方法が、ありのままに観察する、という実践です。つまり、ヴィパッサナー瞑想の実践です。
(○○瞑想の具体的な内容は、慈悲の瞑想以外、この本では記述はありません。その他の書籍や、ネットの情報などから得て下さい。)
執着の捨て方
はじめに
悩み事は全て執着から生まれる。手放したくないという欲があるから執着が生まれる。
序章
執着は生まれたときから。お腹空いた。ご飯が食べたい。のどが乾いた。水が飲みたい。
大人になるともっと増殖。若さ、健康は失われていく。→若いままでいたい。もっと健康でいたい。仕事、お金、車、、、もっと得たい。欲はどんどん大きくなる。不幸と感じるから、理性で制御すべきなのだが。
自分は○○が足りない。○○が欲しい。家を買って、結婚して、部長になったら幸せ。
仕事ができないと不幸。家族がないと不幸。→物、心の執着は捨てるべき。不幸と感じ、みじめな人生になるから。
執着を捨てる。
世の中は無常。自分も、家族も、仕事も、若さも変化していく。捨てたくないとふんばっても、捨てざるをえない。捨てられない、捨てたくないという感情の支配を止める。
究極のこととして、いずれ死ぬので、生き続けることを手放す必要がある。捨てる必要がある。「捨てる」とは、仏教では「いさぎよく捨てる訓練をする」という意味です。捨てる訓練により、人間は成長します。執着を捨てることは、つらいこと、怖いことではない。執着を捨てること=幸せ=不幸(苦しみ、悩み)を無くすこと。
執着の種類は4つ。
1.欲への執着 2.見解への執着 3.儀式・儀礼への執着 4.我論への執着
1章 物と心(欲)を捨てる
欲とは、五感を刺激するもの。食べ物、着るもの、お金、名誉、家、車、、、。
五感を刺激することで生まれる心(○○したい。○○したくない)も含まれる。
渇愛は、満たしても満たしても満足しない心の渇き。○○したい、○○したくないも渇愛。
渇愛により執着が生まれる。
どうすれば執着が捨てられるか。→この世に存在するものは、ただそこに存在しているだけと受け止める。美しいとか、良いとか考えず放っておく。感情を手放す。
(ケースバイケースで執着の捨て方の具体例を示しているが割愛)
(章の最後に瞑想による実践方法が書かれていた。サマタ瞑想。欲への執着を最短で捨てられる方法と記されているが、この本ではより具体的な記述はない)
サマタ瞑想は、物から起こった感覚を、ただ感覚として認識する訓練。五感に情報が触れても、サマタ瞑想により、心がゆるがない状態になる(これがサマーディという状態)
慈悲の瞑想をブッダは推薦している。慈悲の瞑想は、自分を含む全ての生命が平等であると心にインプットするプログラム。生命はエゴイスト。自分が一番大事。それ以外はそれほど大事でないという思いを無くするためのもの。この瞑想も執着を捨てるための訓練のひとつ。
2章 意見を捨てる
欲への執着よりも強力なのが、見解への執着。見解とは自分の意見。自分は、自分の意見は正しいと思う。他人の意見と対立することがある。正しいと思っているのは、あくまで自分の意見。自分の意見を否定されると、自分そのものが否定されている気持ちになる。意見は日々変わるもの。正しいと思う意見は、日々更新していくとよい。
意見というものは、「執着に値するものは何ひとつ存在しない」というのが事実。
(他人と意見をぶつけあっても自分の意見を通す必要なんかない。)
3章 儀式(・儀礼)を捨てる
儀式への執着は、欲、見解への執着よりもさらに手強い執着。
脳は習慣が大好き。人はそれまでとは全く違うやり方をしたくない。儀式に従じるべきと考える。従じたほうが楽でもある。この儀式を行っていれば自分も幸せになれるという執着が強くなる。儀式に執着している間は、人間はみじんも成長しません。
朝1時間もお祈りをあげるとか、断食するとかしても、天国へ行ける保証はない。時間のムダ。成長が止まるというだけならまだしも、儀式にとらわれた人は、人を殺したり、戦争をする。
では、無宗教であれば儀式の束縛から自由でいられるでしょうか。宗教には興味がない。自分は無神論者だという人がたくさんいます。
そういう人も、死者を位牌という形で仏壇に飾って拝んでいますし、お墓を拝んでいます。
これも宗教です。人が死んだらお墓を建てなくてはいけない。お墓を持ったら、お参りに行かなければならない。宗教と思っていないかもしれませんが、そういうものだと頭から思い込んで、疑いの余地なくやっていること自体、宗教という儀式に縛られている。日本の中に根ざしている宗教的なしきたりにそって、行動しているのです。
4章 我論を捨てる
我論=自分がいるという思い込み。
みんな誰でも私がいると思い込んでいますが、「私」「自我」があるとは、科学的に証明されていません。私というのは幻覚かもしれません。私と思い込んでいるものは、実は全て無常で変化し続け、実体がない可能性がある。自分はいるという我論があるため、すべての執着が生まれ、すべての苦しみを作っている。
錯覚を発見する方法に、ヴィパッサナー瞑想がある。
高いレベルの集中力でありのままに自分を観察すると、自分がいるという実感が薄くなる。
怒り、欲も薄くなる。
悩み苦しみが現れるたびに、これは自我の錯覚のせいで起きたなあと確認すれば、気持ちが楽になり、問題が解決します。自我の錯覚を引き起こす原因は、感覚です。観察を実践する人は、感覚が無常、無我であることを発見する。
欲への執着はサマタ瞑想で解決できます。
欲への執着、見解への執着、儀式への執着、我論への執着のすべてをなくす方法が、ありのままに観察する、という実践です。つまり、ヴィパッサナー瞑想の実践です。
(○○瞑想の具体的な内容は、慈悲の瞑想以外、この本では記述はありません。その他の書籍や、ネットの情報などから得て下さい。)