道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

悔やむ

2021年02月26日 | 人文考察
つらつら我が身を顧みると、短歌を嗜まなかったことが唯一悔やまれてならない。

かなり前のエントリー「恋のツール」で愚考したとおり、日本人にとっての短歌は、至高の恋のツールだった。そのツールをただの一度も用いることなく、徒に馬鈴を重ねてしまったことが、今更ながら悔やまれる。尤もこのツールが自在に遣えたところで、恋が成就する保証は無いのだが・・・。

短歌が恋のツールとしての役割りを果たすためには、当事者双方がその嗜みを共有していることが必須要件である。しかも盲滅法に恋歌を連発したところで、恋する相手に命中するとは限らない。相手方には無視、破棄という手段がある。たまたま赤の他人の成功事例を知ったからといって、羨望の念に駆られるのは凡夫の凡夫たる所以、愧の上塗りというものだろう。

西洋人にはダンスという、より直接的な恋のツールがある。自然の本能に従順な彼らならではの音楽とダンスの文化は、あの近世・近代の華麗な舞踏会に結晶している。我々日本人も、明治維新以来その恩恵にあずかって来たが、どうも身に着かないように思える。

明治日本の鹿鳴館は、特権階級の欧化主義の象徴で、日本のダンス文化には何ら貢献しなかった。敗戦後の占領軍によるダンスブームの方が、若者への影響は遥かに大きかった。ロックンロールとジルバが、日本の街々を席巻した時代である。

翻って我が邦には、野外で男女会同して飲食を共にし、歌舞を楽しみ交歓する習俗があった。東南アジア各国の山岳民族の習俗とも共通する、日本列島在来の私たち祖先の風習ではないかと思う。これは奈良時代には歌垣(うたがき)、東国では嬥歌(うたがい)とも呼ばれ、全国各地で春秋に男女が多数参加する庶民の一大リクリエーションだったようだ。それは、一定の音律の歌を男女が贈答し合う求愛の場でもあったらしい。万葉歌人の高橋虫麻呂がこれを詠んだ歌がある。歌謡は、持統朝の宮廷行事にも取り入れられていたらしい。

律令国家が成立すると、和歌は自由人たる貴族たちの独占物になった。まことに悲しむべきことである。唐の律令制度の模倣を通じて、人間性の解放に否定的な中国の思想、儒教がこの国に導入された。文物は精神と切り離すことができない。まことに儒教がこの国に及ぼした影響は大きい。

王朝文化のもとで、和歌が隆盛を誇った最大の理由は、和歌に恋のツールとしての効用が大きかったからと思って間違いないだろう。

再び和歌が恋のツールになる日は二度と来ない。出会い系サイトなるものや、インタレスト・ツイッターなど、安直な男女交際のツールが氾濫する今日、日本民族伝統の和歌は、文芸として不動の地位を保つが、失った効用の重みはあまりに大きい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 学び過ぎ | トップ | テレビ局の凋落 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿