テレビ局がワイドショーを始めたのは1964年だった。「モーニングショー」が、日本のワイドショーの草分けということになるらしい。その後ワイドショーは繁衍し、各局の視聴率競争が今日まで続いている。
視聴者からワイドショーへの関心が薄れ始めているらしい。ニュースの速報性において、テレビはスマホに敵わない。番組への期待と興味が低下しているところへこのコロナ禍、どこの局のワイドショーを見てもコロナ一辺倒で、番組からバラエティ性が失われつつある。
かつては、見識ある有能なMCの存在が視聴率に直結していた時代があった。その後、寛容性に乏しく傲慢な長期単独政権が続き、政権に批判的なMCの発言を嫌う与党の露骨な介入が続いた。有能なMCは1、2局を残し、次々と番組を去った。
現下のテレビ局は多彩なコメンテーターを動員、MCが彼らの発言を引き出す役割に徹するようになっている。卓れた識見のMCを擁するワイドショーはもはや過去のものとなった。
MCの卓見を不快に思う政権与党の、番組内容への容喙に対して、局側はコメンテーターの活用で切り抜けようとした。しかしコメンテーターは玉石混交、顔が売れているだけが取り柄の、その場限りの適当な発言でお茶を濁す人もいて、番組の品質維持は難しい。
政権与党は自分たちに批判的なコメンテーターを嫌う。昨今はキー局で活躍した良識あるコメンテーターが、地方局のワイドショーに出演する例が増えているが、政権の圧力の結果と見ることが出来るだろう。
テレビ局は、ワイドショーに出演するコメンテーターの資質を厳しく審査すべきだ。コメンテーターを多く寄せ集めてみても、多様な意見を汲み上げることにはならない。苟も公共の電波を藉りて番組を放送する事業である以上、視聴者ウケするからといって、品格の劣るコメンテーターを採用すべきではない。
ハッキリ言って、キー局のワイドショーには、コメンテーターが多く出演し過ぎる。専門家であっても、政権への批判を避け、阿諛・追従に終始するコメンテーターが居るかと思うと、政権の代弁者のような曲学阿世のコメンテーターがレギュラーの座に居座る。結果として、テレビ局からジャーナリズムの属性が薄くなる一方である。本業をもった人が、本業の立場からコメントするから、私たちには視聴する意味がある。当たり障りのないコメンテーターの玉虫色の意見を、視聴者は求めていない。
テレビはジャーナリズムの一角を担う矜持を疾うに失っている。
明らかに政党のシンパであることを隠さない元記者、実務をしていない弁護士、診療に当たらない医師、調査報道をしないジャーナリスト、論文と講座の少ない学者など、彼らはもはやコメンテーターが本業と呼んでもよさそうだ。プロのコメンテーターなら、視聴者のウケを狙い政権の意に逆らわないのは当然であろう。
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