道々の枝折

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汚濁は必然

2024年02月20日 | 人文考察
政治の歴史を顧みれば、この世に清廉な政治が行われた験しは、殆どなかったと理解していて好いのではないか。

人には程度の差こそあれ欲望があり、富と地位への執着がある。
誰が政を行おうと、権力の側に在る人たちが、人性に具わる欲動から縁を断つことなど出来ないだろう。法律や制度を作って、政治の組織が恣意的になったり腐敗するのを防ぐのが精一杯。政治家個々人に、生まれつきの欲動を抑えるよう倫理やモラルを求めても無駄だろう。無いものねだりは、願う側の幼稚性を浮かび上がらせるだけでしかない。

私たち人類は、有史以前から欲望主義とでも呼ぶべきイデオロギーの下で生存し、その延長上に資本主義・自由主義を確立して来たのである。政治を動かすエネルギーには、理念と共に欲望が存在していたと理解するのが至当だろう。政治に限らず、殖産や興業も、純粋に社会的な貢献や奉仕の精神だけでエネルギーを維持できるものではない。人が普遍的にもつ欲望を禁じては、何事も成功は覚束ない。

人間は幸福を求める生き物で、食べて眠るだけの、動物のような暮らしを続けることはできない。労働するだけのその日暮らしでは、幸福感を得ることがない。何とかその境遇を脱したいと常に願い、懸命に努力する。

懸命に努力し働いている期間、つまり慎ましい暮らしをしている間は、人は誰でも廉直である。生活に追われる日々の暮らしが、その人を清廉に保つのである。
人は懸命に働いて少しづつ所得を増やし、這い上がるようにして幸福な生活に近づこうとする。その努力の成果として、富を蓄え地位を得る。何ひとつ間違ったことをしていない。

富というものは、大きくなる程人に利益をもたらし利潤を生む。利潤は労働者の賃金と違って、富者にとっては当人がどう言おうと不労所得である。不労所得は、叶うものなら誰もが欲しいものである。
富を蓄えた者が、その富を活かそうと考えるのは自然の道理だと思う。彼はその時から、清廉な生活と訣別する。
人が人生で成功するということは、富か地位、多くは両方を手に入れることである。その富と地位が、清廉だったその人を変えてしまうのである。

ひとり政治家だけが貪欲なのではない。彼らを指弾するマスコミやメディアの人々、行政の職に在る人たち、一般の国民も、成功した人々は、最早清廉だけでは生きられないのである。資本主義の妙味を知ってしまったら、人は元には戻れないものと識るべきである。

広く社会を見渡すと、人間は人生のある一時期だけ、廉潔に過ごすことができるもののようだ。他の時期も同じようには生きられない。
公務にある人は建前としては廉直でなければならないが、人の本性を知れば知るほど、それは無い物ねだりである。率直に言って、人を清廉でないことでもって批判するのは、考えものだと思っている。

新訳聖書のヨハネの福音書に、イエスキリストの逸話がある。

姦淫して捕えられた「罪の女」を、イエスがモーセの律法に定められた石打ちの刑から救った話である。

“イエスは身を起こしてこう言われた。
「あなたがたのうちの罪のない者だけが、まず石を投げなさい」”

私たち庶民は、日々の生活に忙しく、不労所得の獲得に無縁だから廉直で居られるのである。だからといって、清廉でない人を指弾できる立場にはない。
その意味で、富むということは、汚濁を招き寄せるものかもしれない。

川の水でさえ、流れを止めれば濁る。流れる水だけがいつでも清浄である。生活に追われ、浮き草のように流されているから、人間は清廉でいられるのである。だが、誰もがその浮き草の身から脱したくて、それぞれ努力するのである。止まり水こそが、浮き草にとっては安住の場である。

資本主義は人間の本能的欲望から発したもの、人は不労所得の旨味を知ると、その時から清廉とは訣別する。
共産主義ですら、党員の汚職は跡を絶たない。かつてのソ連、今日の中国の有様を見れば明白である。どのような政治体制を敷こうとも、いかなるイデオロギーを信奉しようとも、人間に汚濁を澄ませることはできない。

制度が誤っていたら、正さなくてはならない。法律に背いたら罰しなければならない。しかし人性に潜む富への欲望を糺すことだけは、誰にもできない。
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