正月を迎え、神社に参拝などすると、「大和言葉」の響きと意味に思いを新たにする。
大和言葉は、中国から漢語が入る前の、日本人が用いていた真正の日本語だから、私たちの耳には心地好く感じられる。自然現象や感情などを表すとき、大和言葉でないと的確に表現できないことがよくある。日本人の感情は、本当は大和言葉でなければ伝えられないものだろう。正月は、中国由来の語音から束の間遠ざかるとき、自分たちの遠い先祖の言葉の響きを賞翫する絶好の機会である。
日本には「八百万の神」が坐すと聞いている。先史時代、私たちの祖先の信仰の対象は太陽や月、山や島、滝など自然の「物体神」だった。クニごとにムラごとに、人々の信仰の対象となる物体神があった。最も多かったのは「山体神」で、山そのものが神。その神は山中の岩場の祭場、磐座(いわくら)に来臨すると考えられていた。人々はそこで神と接し、食物や物品を供え、神楽・相撲などで饗応し、祈りや願いを捧げたという。日本人の饗応好きは、この神事の延長上にあるものかもしれない。
その頃は、山麓に現在のような本殿・拝殿などの神殿施設は無く、神域の出入り口を示す小さな鳥居のみがあるだけだったらしい。鳥居から先は畏れと祈りの領域だった。それが原初の日本の神社の姿であり、神の祀り方だった。極めてシンプルなものであったろう。仏教が6世紀に伝来するまでの日本人の信仰は、宗教とも言えない素朴な自然崇拝だった。
仏教は思想性をもち、精緻な教義を経典に著した「世界宗教」だった。発祥の地インドから中国に渡り、その地で信仰が広まると、儒教・道教など中国在来の思想・宗教の影響を受け、変質を蒙った。変質の期間は長く、経典の中国語訳が進むに伴って、漢民族の思想・芸術・文化・習俗が、インド由来の仏教に摂り込まれた。変質した仏教は朝鮮半島に入り、公式には百済を通じて日本に伝わった。それ以前に新羅からも人の渡来に伴って入っていた形跡はある。
仏教を学んで仏を知ったことで、それまで自然物だった日本の神々も、人の形と人格をもつ存在と認識されるようになり、名前と個性をもつ「人格神」となった。神が人と同じ形と心なら、雨風をしのぐ必要があると考えられ、寺院に倣って本殿や拝殿などの神殿が建築されるようになった。仏教の如来・菩薩など多様な仏を模範に、天照大神を始め〇〇の命(尊)など、数々の神々が創り出され、神社の祭神となった。天皇の命令によって編纂された古事記、日本書紀がその典拠となった。天皇や豪族の始祖は神であり、それらの始祖を祭神とすることで、神社の権威と存在意義は守られた。
寺院の仏教建築が盛んになるに従い、神社は荘厳な寺院建築に倣いつつ対抗する形で、日本古来の建築様式による本殿・幣殿・拝殿などを建築するようになり、鳥居も壮大になっていった。
今日の有名神社の社伝に記されている創建年代は、いづれも仏教寺院より古い。仏教伝来より以前に「神祇信仰」が発生しているのだからそれは当然だが、歴史的に信頼に足る創設の資料はないとされている。神社は威信を示す必要から、中国風の寺院建築とは一線を画す独自の建築様式を確立していったようだ。
ただし、古来の建築物の形が厳密に保存されて来たかというとそれは分からない。仏教伝来までは、社殿が無かったのだから、寺院建築を模倣した部分があったかもしれない。神仏一体の思想が建築様式に影響したであろうことは推測できる。神社の建物は、遷宮や兵火・地震・落雷などの災害で再建される都度、改築に伴って変化して来てもいる。神殿は決して万代不変のものではない。
寺院と神社の建物の違いはただひとつ、人が住めるか住めないかである。寺院は修行僧が寝食を共にして仏法を学ぶ場だったが、穢れを嫌う神社に人の生活設備は一切無い。
伊勢神宮でさえ、現在の内宮の壮大な本殿と、明治期のそれとでは、外観において大きな隔たりがあったことが写真でわかる。お伊勢参りが盛んになった江戸期の伊勢神宮の社殿は、当時の絵図を見ると今とは随分違って簡素なものであったようだ。逆に出雲大社のように、江戸時代には今より壮大だったと推定されている例もある。神と雖も、時々の政治・経済の影響を蒙らない訳にはいかなかったのだろう。
インドは偶像崇拝の国で、仏教は偶像崇拝を嫌うユダヤ教やイスラム教と異なり、偶像の極めて多い宗教である。釈迦も如来も菩薩も、仏像の形で人に接する。私たちの先祖は仏教を知って、天の神々・地の神々が人の形をしていると認識するようになった。天神地祇は、仏教伝来後の神話創出に伴って、それまでの神話や伝承を基に案出された神々であると見て差し支えないだろう。
それらの神々は、天皇始め豪族たちの先祖とされた。権威づけの為の牽強付会は、我が民族に特徴的な習性である。平安時代に「本地垂迹説」が敷衍し神仏習合が始まると、神宮寺が神社の境内に建てられ、その後明治になるまで、日本の宗教は一貫して神仏習合の時代が続く。正月に寺院・神社を分別することなく参拝する現代の風習は、習合時代の名残りだろう。
八百万の神を、日本人の宗教的寛容性の現れなどと言って、一神教の西欧世界やアラブ世界に対する日本人の優越性の根拠にしようとする浅薄な有識者がいるが、これは頷けない。神は人に寛容であっても、人が神に寛容などということは、神と人との関係性から謂ってあり得るはずがない。神に対して寛容なのではなく、そもそも人々の心中に、信ずる真の神が存在しないのである。ご利益宗教から一歩も出ない宗教的無関心または無信仰の表れというべきであろう。神を、宗教を、本質的なところで求め、理解しようとしていない。
教義をもたない「神祇信仰」は、世俗と宥和的である。権力とも親和性が高い。人々は、神に供え物をして祀り、機嫌をとっていさえ菅原道真れば、神は利益を齎らしてくれると信じて崇敬する。神の機嫌を損ねると禍をもたらすとして、畏怖することも並大抵ではなかった。神は人々を禍で罰すると信じられて来た。
日本の神々は、いったん怒らせると荒れ狂い、禍を為して人々を困らせた。旱魃・水害・疫病・火災・地震・落雷など、あらゆる禍事は、神の怒りに起因すると考えられ、我々は今日でも神を怖れること甚だしい。常の畏れでなく、怖れである。日本の神々には、慈愛を期待出来ないのだろう。
地鎮祭が好個の例である。関係者が集い畏れ畏み行う鍬入れの儀式、地の神の怒りと祟りを怖れること滑稽なほどである。神代の昔または未開地域と変わらない。地業に先立ち絶対に欠かせないのがお祓いである。日本の神は荒ぶる神であり、災害をもたらす怖い神だった。
西洋、インド、中東の宗教からみれば、教義・経典をもたない「神祇信仰」は、土着性を多分に残した素朴な利己的信仰であって、とても世界の普遍的な宗教の範疇には加えられないだろう。
6世紀に伝来した仏教は、この神格的に未熟な神々の暴威を抑え鎮める力を期待され、急速に国内に信仰が発展した面がある。飛鳥時代の天皇をはじめ朝廷貴族たちは、荒ぶる神々の祟りに弱り果てていて、先を争い仏教に飛びついたのかも知れない。
いかなる民族でも、神はその民族の属性を反映する。その民族の信ずる神を知れば、その民族の性質がわかる。土着の神はその民族の本質そのものと言えるだろう。
思想性のある宗教即ち世界宗教と言われるものが世界を覆う以前の、各民族に固有の土着の信仰を具に調べれば、その民族の本性がある程度はわかるだろう。ギリシャ・ローマの神々、北欧の神々、インドの神々、中国の神々、そして日本の神々。それぞれが民族の特性を反映しているに違いない。
現代の日本人に決定的に欠けているもの、それは信仰と生活行動との一致、すなわち宗教的現実性である。生活と宗教の一体性である。宗教の専門家でない日本の有識者の多くは、人間にとって信仰が不可欠であるという普遍的な事実に目を瞑り、真剣に取り組んでこなかった。今日の私たちの宗教的空洞は、このまま変わることなく続くのだろうか?
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