かつて「宿六」という夫の呼び名があった。旦那、主人、亭主、宿六の順に格が下がる。
「宿六」とは「宿のろくでなし」の意であるから、亭主を貶める語ではあるが謙遜にも使い、時には多少の親愛感も入っている。「マイダーリン」の照れ隠し的表現だろう。夫たちが常用していた「ウチのバケベソ」と相対する言葉であろうか?
私はこれまで自分のことを妻が外でどう呼んで来たか知らない。しかし彼女が週一で参加する或る同好会の集まりで、何気なく日頃の生活を仲間と語るとき、少しづつ連れ合いのプロフィールは漏洩する。それが特異だから人は驚く。
「百舌ジジイ」
百舌(モズ)という鳥は、これを飼育(今は許されない)するとき、大変給餌の難しい鳥で、幼鳥は親から与えられる生き餌しか食べない。人からは一切餌を受け付けない潔癖さが、他の小鳥と際立って違う。どんなに空腹でも嘴を堅く噤んで差し餌を受け付けず、餌付けは不可能に近い。人には決して馴れないようだ。
メジロを飼育していた頃、庭先に鳥籠を出していてモズに籠を襲われ、愛鳥を失ったことが幾度もあった。モズはメジロなどの小鳥からカエル・トカゲ・ バッタを好んで狩る。獲物を木の細枝に突き刺す習性(モズのはやにえ)があり、そのプレデターぶりは夙に知られている。自ら狩った獲物しか食べないから、保存を心懸けるのだろうか?
織田信長は年少の頃、モズをつかって鷹狩りの真似事をしようと試みたが、成功しなかったという。おそらく、餌付けが壁であったのだろう。猛禽類に似ているから思いついたことで、信長らしいエピソードだが、モズは鷹の飼育より難しいかもしれない。
そんなことを私から聴いて知っていた妻は、日常で食べ物の好みが煩い亭主にモズとの類似性を見出し、密かに私のことを「百舌ジジイ」と呼んでいるらしい。
「ウチの百舌ジジイ、私の作った料理でも、嫌いなものは手を付けないの」とか、「事前に何を作るか教えろって言うの」とやるから、周りは「おお嫌だ!面倒くさい」とか「何様のつもりだ!」と非難の声が挙がり、当人には同情の輪が広がる。
実際は期待を込めてただ「今日の晩ご飯は何?」と穏やかに訊くだけなのだが、当人にはコレが一番気に障るらしい。妻とその仲間たちは(妻の作る料理は黙って有り難く食べるもの)という思想で一致している。
「注文や文句など片腹痛い」、「まして味を云々など」であるから、建言も提案も全て「百舌ジジイ」の不遜な発言のひとつにされてしまう。
私はかつて餌付けに一度も成功しなかった百舌(モズ)に、深い敬意を抱いている。鷲鷹には遠く及ばないが、燕雀や鴉に成りたくはない。百舌なら僭称には該らないだろう。「百舌ジジイ」で大いに結構。むしろ誇りに思う。因みに百舌の名は、味にうるさいのでなく、他の小鳥の囀りを真似ることが巧いことからきているらしい。
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