道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

浜松城と三方原合戦

2020年03月03日 | 歴史探索
今日は好天で暖かい。寒気がぶり返す前に歩いておこうと、街中まで買い物に出かけた。約8キロのウォーキング。

春風に乗って、草の匂いと花の香りが鼻腔をくすぐる。なんといっても、紫外線の降り注ぐ屋外は素晴らしい。新型コロナウイルスの為に、深呼吸する習慣を忘れていた。植物に接するのは、何よりも心身をリフレッシュさせる。

道脇にヒメリュウキンカの花が輝いていた。上を向いて笑っているように見える。コロナ報道に一喜一憂する自分が恥ずかしい。日頃注意していながら、マスコミに踊らされている自分が滑稽だ。

浜松城の本丸を左手に望んで、台地を東に下る。
天守台の石垣は、豊臣家の家臣、堀尾吉晴が城主の時代に築かれたものらしい。家康在城当時には、天守閣も天守台も存在していなかったようだ。



この城が歴史の脚光を浴びたのはたった一度、それは三方ヶ原の合戦の時(1573年)だった。

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【三方ヶ原の合戦】

元亀3年、武田信玄率いる甲州武田軍約3万の軍勢は遠州に侵攻した。
12月22日、浜松城の北方に広がる三方ヶ原で、甲州武田軍と浜松城から出撃した徳川・織田連合軍との間に、激戦が交わされた。

三方ヶ原は南北約15km・東西約10km、平均標高約45mの台地で、当時は不毛の原野だった。この合戦の2年半後に戦われた長篠の合戦の主戦場設楽ヶ原(したらがはら)と比べると、5倍ほど広い。後の関ヶ原合戦の戦域のほぼ半分ぐらいにあたるだろうか?

この合戦は遭遇戦で、しかも武田軍は、城取りを目的としていなかった。浜松城の歴史に城攻防の機会は訪れることはなく、単に徳川家康の出撃基地としての意義のみが遺る。

2ヶ月もの間頑強に抵抗した天竜川河畔の二俣城を、漸く3日前の12月19日に陥落させた甲州軍は、兵を休ませる暇もなく22日に二俣を進発し、浜松城を目指すかの如く天竜川東岸を南下した。途中現在の磐田市神増(かんぞ)で渡河、遠州平野を横切り西進する。

三方ヶ原台地の崖の下、現在の浜松市北区有玉西町欠下(かけした)から台地上に出て休息、約6km南の城を尻目に、ゆっくり北に向かって行軍を始めた。
上京を急ぐ信玄には、浜松城攻略の意図は無かった。二俣城攻略に2ヶ月もの時間を費やしたことが、その理由だろう。

客気に富む31歳の青年武将家康を挑発するように、勢威を見せつけながらゆるゆると進軍する甲州軍。これを櫓から望見した家康は、出撃を決断する・・・

織田の援軍3千と合わせ約1万2千の将兵は、物見の報せで武田軍の進路と彼我の距離を確かめると、直ちに城を出、攻撃の機会を窺いつつ甲州軍を追尾する。自軍より多勢の敵に対しては、追尾して地の利に恵まれた場所で戦端を開くほかに勝算はなかったろう。

ところが武田軍は、行軍部隊の先頭が台地北端の祝田(ほうだ)の坂にさしかかる手前で俄かに反転し、魚鱗の陣形で構えた。まさに決戦の態勢である。
対する徳川・織田連合軍はこれに即応し鶴翼の陣を敷いたとされるが、これは信じられない。寡兵の側が横に陣形を展げるはずがない。魚鱗と鶴翼の対陣は、どちらも後世の兵法研究者の脚色だろう。
双方行軍隊形のまま街道上で衝突し、必然的に戦線が左右に拡がったと見るのが妥当だろう。

戦端は夕刻に開かれ、瞬く間に甲州軍優勢の戦況となった。約2時間の戦闘で、徳川・織田連合軍は総崩れとなり、家康はじめ徳川軍将兵は命からがら浜松城へ逃げ帰った。この戦さで、家康は数多くの譜代の家臣を失い、織田援軍の副将、平手汎秀(ひろひで)までもが討ち死した。家康一代の完敗だった。

浜松城を目前にして、乱戦の最中に討ち死した家康の馬廻り夏目吉信の碑。

武田の追撃部隊は城の搦め手近くまで迫り、そのまま夜営して警戒を怠らなかった。

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【平手汎秀の敗死について】



織田加勢軍の客将平手監物汎秀が、戦場から最も遠く離れた城の南南西約1.5kmの三方ヶ原最南端、稲葉山(いなんばやま)で武田軍に討ち取られたのは、どういう事情だったのか考えてみた。



ひとつは武田軍の追撃が急な上に執拗で、地理に昏い汎秀とその馬廻りたちが日没までに城に戻れなかったという推理。総大将の家康ですら、敵の追撃をかわして僅かの近習と帰城するのが精一杯だったというのだから、これは大方が納得するところだろう。

もう一つの推察は人事の不調和。平手汎秀は前日の軍議で、籠城に拘ったようだ。つまり野戦をしないという主張だった。そのように信長から内命を受けていたかもしれない。
信長はこの時、武田軍と全面的に戦うことに消極的で、家康の再三の援軍要請にも反応が鈍かった。汎秀が家康の出撃に不本意であったと見るのは妥当だろう。

その日織田勢援軍の主力(佐久間信盛指揮下)は現豊橋市の吉田城にあり、浜松城派遣部隊が漸く浜名湖の西方、現湖西市白須賀あたりまで進出していたという説がある。つまり織田の援軍は、前日までに全軍が浜松城内に入っていたわけではなかったようだ。援軍の主将佐久間信盛は、遅疑逡巡して行動が遅れ、三方原合戦に参戦していなかったのではないかと思われる。このことは、後に信盛が織田家を追放される理由の一つになったと伝えられている。

平手汎秀が若い家康の力量に危惧の念を抱いていたと考えるなら、野戦での惨敗を見て戦線を離脱し、家康の指揮下を離れ吉田の本隊との合流を求めた可能性は捨てきれない。

平手家は織田家譜代の有力な国人領主だった。家康の松平家と家格は変わらない。本拠は尾張春日井郡。しかも平手汎秀の父または祖父といわれる信秀は家老格でもあり、若き日の信長の傅役(もりやく)を務め、信長の余りの放埓を諌めて自害したとも伝えられている。佐久間信盛と共に、織田家の宿将の家柄である。

この合戦の当時、武田信玄は宿痾の胸の病いが悪化していた。そのため、戦勝の翌月から祝田の坂下にあたる中川で、休養を余儀なくされている。

三方原の合戦を機に、天運は勝者の信玄を見放し、敗者の家康の興隆に傾き始めた。

とつおいつ、往時に思いを馳せながら坂を下り街中を抜け、目的の店にたどり着いた。ヘルスケアの表示は、8.4kmだった。
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