「刀と首取り、戦国合戦異説」(鈴木真哉著)によると、日本刀は刃物(刀身)としては比類なく鋭利で強靭な切れ味を誇るが、柄と刀身の結合構造に脆弱性があり、武器(兵器)としての工学的な欠陥を抱えていたらしい。
日中戦争の時代に軍刀の修理を請け負った研ぎ師の調べでは、多くの軍刀は、刀身よりも木製の柄(つか)の部分が傷み壊れていたという。日本刀は、実用では柄が真っ先に破損する構造の刀剣らしい。柄が壊れては、いかに剣豪といえども剣技を揮えない。
「目釘を湿す」という言葉がある。日本刀で斬り合う際、主人公が水や酒を口に含み、柄元にプッと霧を吹きかける見慣れたアレである。アレは見栄を切るためにするのでなく、刀身を木製の柄に固定する目釘(竹製が多いが鉄製もある)が、撃剣の衝撃で抜け落ち、刀身が柄から脱落しないよう柄と目釘の結合部を水湿で膨張させると同時に、柄巻きを濡らし手が滑るのを防ぐ目的の行為だったようだ。
ドラマの剣戟シーンでは、迫力を盛り上げる重要な見せ場だが、使用前にいちいち柄に水をかけなければならない刀剣が、世界のどこにあるだろう?刃物としての技術的完成度の高さに比して、武器としての脆弱性という極端な対比は、いったい何に由来ものだろう?日本文化全体に潜在し、破滅的な障害をもたらす非合理の謎の一例である。
日本刀同士での戦闘の場合、斬り合いが始まるときはどうするか?やはり名乗り合って柄に湿りをくれ、いざいざと立ち会うのが本道だったのだろうか?手近に水や酒がないときはどうするのか?
刀と刀が撃ち合う剣戟の発生しない抜き打ちや居合は、ある意味日本刀の特性(重い刀身と柄の脆弱性)に適った、合理的な剣法と見ることができる。つまり刃を撃ち合わせることのない必殺の剣である。二の太刀、三の太刀は無い。丁々発止と刀を打ち合わせず、急襲で敵を一刀のもとに斬撃する必殺武器としての日本刀の特性が、浮かび上がって来る。
古来盾と刀剣がセットであったのは、ギリシャ・ローマを始め世界の戦鬪史に明らかである。中国に在った盾を使わなかったのは、わが国の兵器運用の謎だが、前記事情、撃剣を交わすことなく一瞬の必殺に集中する、そうせざるを得ない剣なら、盾など必要としない。
面白いことに、日本の鍛鉄製道具類は、鍬・鋤・鎌などの農具、槌・玄能など工具、そして調理具の包丁に至るまで、すべてが木製柄で、使用に際しては木部の柄と鉄部との結合部に水を与え緊結性を高めてから使う。木部の吸水膨張で、鉄部と柄とを緊結させる極めて原始的な結合方法が、弥生時代以来、改良されることなく続いて来た。これは単に工学的な発想だけのものだろうか?
西欧のリベットやネジ・ボルト・ナットを学ぶまで、日本では鉄と木とを専らこの緊結法で固定し、道具や武器として使い続けてきた。乾燥地域や草原地域の鉄製道具や刀剣では、絶対にそのような構造は採用しないだろう。
西欧を含め、戦闘的な民族の実用した刀剣は全て、刀身と柄が鍛鉄の一体構造で、柄の部分は、頑丈な動物の角や骨または青銅などをリベットで柄の両側から挟み固定し、握り易くする。しかも柄は片手持ちで短いのである。日本刀の両手持ち(刀身が重いことが理由)の長い柄という刀剣も、世界では珍しい。騎馬民族の片手持ちの刀剣は軽い。鋼鉄を軟鉄で包み重ねて鍛造し、靭性を高めた日本刀は重く、片手での取り回しは困難である。このあたりも、必殺剣としての日本刀の目的化を思わせる特徴である。
日本でも、古墳から出土する大陸・半島由来の直刀から平安時代中期の「毛抜形太刀」の時代までは、柄と刀身は一体構造、片手持ちの剣を用いていた。戦闘の有り様、武器の多様化、刀剣の使い方の変化が、日本刀に構造的変化をもたらしたらしい。の変化は、刀剣史、戦闘史の謎である。
日本の刀剣は、強靭性と鋭利性を増すにしたがって、堅牢性という武器としての実用上最も重要な要素を失ったのではないかと推測される。我々の先祖は、刀という武器を、その効果的な運用法で最大限に活用しようとしたのではないか?切れ味の並外れて鋭い刀に最適の運用術を、見出したに違いない。
刀身と木製柄との分離構造は、国内の古墳時代の刀剣や毛抜形太刀、外国の刀剣一般の一体構造と較べ、武器としての堅牢性が決定的に劣る。脇差しや短刀ならいざ知らず、刀身の重い打ち刀での撃剣の強烈な衝撃は、目釘の一点に集中する。実際の真剣同士の剣戟では、竹製の目釘が折れたり抜けることが頻繁に起こったことが、近代の戦場で知られている。目釘が折れてしまえば、刀身を柄に固定しているのは柄巻きという紐の緊縛力だけになってしまう。
柄の材料には、軽く柔らかい朴の木が使われているが、衝撃を吸収するという利点はあるものの、強度的には木の中ではどちらかと言うと弱く軽い素材である。物性が極端に異なる金属と木材を、ただ1点または2点で支え、その支点に力が集中する構造であれば、弱い素材でできている部分が先に壊れるのは明らかだ。
我々の先祖は、ある時期から近代(明治)に至るまで、刃身と柄を一体で鍛造した刀剣を使わなくなった。刀は実用武器の座から降り、勇を鼓舞する神器、身を飾る工芸品=装身具に進化したのだろうか?刀身の優秀性が、刀を武器の域から高次の工芸品・美術品の域に昇華させたと見ることもできる。
戦国時代でも、存外刀剣による白兵戦は行われなかったと、前記本の著者は語る。それでは戦国時代の白兵戦では何が主武器であったのかというと、著者は槍を挙げている。それ以前には、長太刀や薙刀だった。柄の長い、近接しないで敵を殺傷できる武器が主流であったことは、誰もが首肯できる。
江戸時代の赤穂四十七士の吉良邸討ち入りでも、赤穂浪士達は全員が槍を装備して戦闘に臨んだ。寝込みを襲われた吉良方に槍の備えはごく僅か、已む無く刀で応戦した結果、多くが討取られたり重傷を負っている。討ち入り浪士の側に重傷者は少ない。槍と刀では、槍の方が殺傷力に勝れていることの実証と言える。
槍は刀と較べると、戦国期のもので現存する古物は極端に少ないという。専ら敵兵を殺傷する実用武器であったため、消耗・損耗が激しかったのがその理由であろうと著者は言う。戦場では、槍は矢・玉(弾丸)に次ぐ消耗品だったようだ。それに対して刀は、手柄首を打ち落すときのみ、つまり金属でない柔軟なものを斬る際に用いられたのではなかったかと、著者は推理している。
日本刀は武家のシンボル、武士の魂であったことは論を俟たない。あの優美な曲線と鋭利さに、心を奪われない者はいない。家重代の家宝を、白兵戦で修理不能にしてしまう訳にはいかなかっただろう。鎧をまとった相手には、刀で切ったり突くよりも、槍で突くほうがはるかに殺傷力が大きく合理的である。戦場では槍が最良の実用武器であったことに、議論の余地は全くなさそうに思える。
日本刀は、硬いものと打ち合う目的で作られた戦闘具ではないと考えれば、柄は柔らかい素材で、刀身との結合構造も簡素でよい。実用に供されなかったからこそ、名刀が数多く現存していると考えるのが妥当だろう。
日本刀の作刀の絶妙さや拵の精緻さ美麗さは、世界の刀剣の中で抜きん出ている。やはりお家重代の宝物であり、精神的な拠り処であったことは間違いないだろう。
因みに、戦争中に日本の将校が携帯した軍刀は、軍の制式の装備でなく、親が買い与えた守り刀、個人の私物だったらしい。厳正で鳴るさすがの皇軍も、この慣習だけは排除できなかったようだ。戦闘機の狭いコクピット内に、パイロットが操縦の邪魔になる軍刀を携行した事実は、日本人・日本軍に特有の非合理性と情緒性を示すものである。自動小銃・機関銃の時代に刀剣の携行はどう考えても奇異だが、その慣行は敗戦まで続いた。刀は日本の武人・軍人の魂、象徴であった。
切れ味は抜群に鋭いが実用強度が脆弱な日本刀は、武器としての合理性に缺ける。日本刀は矛盾に満ちた武器である。ルース・ベネディクト女史が日本刀の武器としての特異性を知っていたかどうかは分からないが、彼女の著作の題名「菊と刀」は秀逸である。菊は言わずもがなの天皇だが、刀は日本人と捉えるのが妥当ではないだろうか?
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