てんちゃんのビックリ箱

~ 想いを沈め、それを掘り起こし、それを磨き、あらためて気づき驚く ブログってビックリ箱です ~ 

田舎の公園

2017-10-15 23:31:38 | 昔話・思い出



 暫く前に、墓参りに日本海側の田舎に帰った時、街外れに児童公園が出来ていた。
 ブランコやジャングルジム、滑り台等の真新しい遊具がちゃんと並んでいる。 
 しかし全然人気がない。過疎化が進んでいると聞いていたが、確かに道を歩いていても、そこまでほとんど人に出会わなかった。


 こんなところに、本当に児童公園が必要だったのだろうかと思うとともに、小学校のころに、都会からいとこが来た時を思い出した。




 小学校高学年の夏休み、おばさんが都会からいとこ2人を連れて、本家へ墓参りに帰ってきた。上の子は、私とほぼ同い年である。
 次の日、本来ならば友達と小川へナマズ取りに行くはずが、母に遊んであげなさいといわれて、弟を連れて、本家に行った。そこではつまらなさそうに、トランプが行なわれていた。

 外遊びしようと言うと、彼らは眼を輝かせた。しかし、まず服装で困ってしまった。
 あわよくばナマズ取りと思っていたのだが、とても汚せる服じゃない。同様に山へ連れて行って、がけ登りさせて秘密の陣地にも連れて行けない。


 おばさんから、近くの公園で遊んだらと言われたので出かけることにした。いとこたちも、都会では公園以外では遊んじゃいけないんだよと、強調する。

 今度は私が困ってしまった。
 公園と称するものはこの近くにはない。その時は、私には公園という概念そのものもなかった。

 私も現在は都会に住んでいるから、公園とは、子供達に確保されている安全な広場を意味することがわかる。
 しかし田舎では、それならば周りじゅう公園だった。休耕田はちょっとした広場だし、林なんかジャングルジムだ。だいたいその本家自体が、ある程度の広さの庭を持っており、充分かくれんぼできる。

 しょうがないから、小学校の校庭にでも行こうかなど思いながら、向こうの兄妹2人とこちらの兄弟2人の4人で歩き出した。
 途中で友達のナマズ取りの状況を見るために、小川に沿う遠回りの道を選んだ。


 途中、校庭についたらどんな遊びができるかを話した。鬼ごっこ、8の字、けんけんぱなど。鬼ごっこ以外は、どうも遊び方で話があわない。大分憂鬱になってきた。

 小川の中から、友達が手を振ってきた。
 そして網を持って、私達の方へ上がってきて、そこにあった桶に、ナマズを入れた。
 中には3匹、子供の手の幅3つ分の大物もいた。小さなハヤが、上のほうを泳いでいる。
 友達はすごいだろと僕達を見た。僕は心底羨ましかった。

 そこから離れると、いとこは言った。
「川の中には、入っちゃいけないといわれているんだよ。あんなに泥だらけのところへ、よく入っていくね。」
 困ってしまった。どういう風に、あの面白さを話せばいいんだろう。

 しかし、暫く歩いたところに、ドラマが待っていた。

 土手に生えた小さな木の枝に、青緑色のものが留まっている。カワセミだ。
 実は、私もそのとき初めて、生きているものを見た。剥製と全然違っていて、キラキラ輝いている。

 それが、じっと川面を見ている。

 皆が一斉に足をとめ、これも一斉に口元で、シーッの動作をした。
 そしてやはり太陽の反射でキラキラ輝いている川面と、鳥とを繰り返し様子を覗った。

 パッと飛び立ち、水に突っ込み、元の枝の上でホバーリングするのを、一動作で完了した。そして、すっと元の枝に降り立った。
 動いている小魚を、僕達の方を見ながらくわえ直し、そして林の方へ飛び立った。

 もう少し歩くと、今度は青大将が2匹、小道を横断していた。先ず1mクラスが現れ、その後をかなり太い1.5m弱くらいの大物がにょろにょろ出てきた。
 小学校に入ったばかりの従姉妹が、キャッと悲鳴をあげた。そして、ヘビが通った道だからもう歩きたくないと言い出した。


 もうあきらめて、そこから本家に戻った。
 道すがら、ヘビなんかよく家の天井を這っていて、ねずみを食べることがあるんだよって話したら、寝られないかもしれないと従姉妹が言い出したので、本家の新しい部屋は大丈夫といったら、一応安心した。

 結局、本家の庭で缶けりをして遊んだ。最初にルール調整が必要だったけど、楽しんでもらえたみたいだった。



 そのいとこ達とは出会うと今でも、ピクピク動いていた小魚をパシパシと枝に叩きつけながらくわえ直したカワセミ、悠々と道に寝そべっていた青大将の話になる。
 そして田舎って、どこでも遊べたねって話になる。


 結局都会に住んでいると、何時の間にかいろんな制約ごとが刷り込まれてしまう。
 あの時のおばさんだって10数年前は田舎の人だったんだから、あの家の庭でいくらでも遊べることは、思い出せばわかっていたはずなのに、「公園で」と言った。




 しかし現在は別の意味で、田舎でも必要と思い直した。
 私のちいさい頃は、まだ過疎化は起こっていず、田畑や山の中まで、それなりに大人が入っていて、子供が勝手に遊んでいても、ちゃんと見守る眼があった。
 それがこんなに人が外にいないと、人家を離れたところでトラブルがあってもわからない。


 都会の危険と違う危険が田舎には発生し、この児童公園を必要としているのだ。



コメント
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