先の日曜日、久しぶりにリビングの本棚の本を入れ替えてみた。特に約40巻の美術全集のうち半分しか出していなかったものを、入れ替えるのがメインの仕事だった。残念ながら部屋は狭く本棚も小さいので、半分ずつしか出すことは出来ない。今まで出していたものは段ボールに入れ、押し入れの奥へとしまわれる。
約10年ぶりにページをめくったが、以前と同様に鮮やかな図柄で、久しぶりだねって迎えてくれた。
父はあまり本を読んでいるのを見かけることはなかったが、本を並べるのは大好きだった。
本当にたくさんの全集を買っていて、8畳間の壁の2つがぎっしりと詰まり、その他の部屋まで溢れていた。
筑摩書房の約100巻ある世界文学大系、河出書房および講談社の現代日本文学全集、そして何種類かの美術全集に、国内や国外の地域紹介写真集、果てはブリタニカの英語の百科事典。
小学校から中学校にかけて、毎月何らかの本が届いた。美術の本や写真の多い本は、興味本位だけれども、来るたびにさっと眺めた。
今考えると、その頃の乏しい収入の中で膨大な支出だったと思う。
子供達は、そんな心配は考えも及ばず、大人になったらこんなに文学ってものを読むのか、頑張らなくっちゃとおもった。
また、どこが素晴らしいのかわからないなりに、ひととおり過去から現在までの高名な芸術家や、有名な作品を知った。
そして日本や海外の写真から、外の世界への憧れを強く感じた。
小学校はいうに及ばず中学校の図書館と比べても、私たちの家のほうが、迫力があった気がする。
ともかく兄弟4人が読書好きだったのは、この本に囲まれて育ったせいである。
また私が家から離れ、小説を読むようになった時、最初は文庫本に違和感を感じたくらい、本は箱付きが当たり前と刷り込まれていた。
ところで、何故に父はこれだけたくさんの本を買ったのか。
それがわかったのは、あるトラブルでちょっとした額のお金が必要になった時だった。その時には、私は就職して働いていた。
父は言った。
「この本を売れば、一財産だ。これらはいい本だから、かなり値上がりしているはずだ。」
えーっと思って、父の主張を聞いた。
若い頃に曾おじいさんが購入した本が高く売れた経験と、父に本を売りつけている本屋の幼馴染が、そう話しているとのこと。
「古本で高くなるのは特別な由来のある希少性のある本で、それもきちんと管理されてなければいけないよ。一般の全集なんてとても無理だよ。」
こう私が言っても、父は思い込んだら命がけって人だから、絶対に聞かない。
ましてこのたくさんの本を、田舎で得意になって見せびらかしていたのだから、その基盤を崩すような話を受け入れるはずがない。
母もいつものことなんだからと言う眼で私を見ているので、お金は私が用立てすることで、本はそこに温存することにした。
父が亡くなり、暫くして母が弟達と関東で住むと言うことで、いろんな持ち物を整理した。
最ももてあましたのが、これらの本であった。子供達でせめて少しづつはと引き取った。私は先に述べた美術全集をとった。
後は公的な機関に寄付するかまたは古本屋にということになったが、結局は古本屋に頼むことになった。
古本屋に取り次いだのも、父に本を売りつけた例の父の幼馴染である。見事に二束三文の価値にして平然と引き取っていったと、母が怒り、そしてやっぱりと、あきらめたように報告してきた
家でその本を並べることにしたのは、その頃子供がまもなく6年生になるのに、教科書自体がパンフレットみたいであまりにも貧弱なのと、読書内容も一寸情けないなと思ったからである。 部屋を見渡すと、私たち親自身すら文庫や新書また雑誌ばっかりで、まともな本というのは眼につく所にはない状態にあった。
やはり、大人が読むちゃんとした本がそこにあり、そして大人が、それを大人っぽく読んでいるという雰囲気を作らなければいけない、そうする事によって、本への興味や、読む面白さと言うか凄さを伝えていこうと思った。
その時、リビングの本棚の最下段を占めたその全集は、存在だけで一気にその場を優雅な雰囲気に創り変えた。そして、私の気持ちもなにか満ち足りた感じになった。でもその程度では父のような迫力は生まれなかった。
私が持ち帰ったのは海外の著名な美術館ごとの全集で、やっぱりそこにある限り時々は中を覗き、また家族の話題にもなった。その後海外に行くたびにその場所の美術館を狙っていくというきっかけになった。私の配偶者も美術好きになり趣味が共通にできた。ただし子供は美術仲間にはならず、寧ろ配偶者の好きな音楽派になった。好きなものができればそれでいい。
いま残念に思うことは、父がやったような一見理不尽な大人の贅沢を子供に見せることができなかったことである。
なんでもいいのだけれども、こだわったものを見せてゆけば、私の父の子供への影響のように、興味の持ち方のパターンが広がったかもしれない。