靖國神社に14柱の特別な英霊が合祀されております
いわゆるA級戦犯と呼ばれていた方々で、国民4000万人の嘆願と国会での閣議決定で公務死とされた方々です。
問題点
靖國合祀の基準外である。
東京裁判の受諾。
これだけなのです。たったこの事を天皇陛下の荘厳さや厳格さを利用して頑なに本来のルールをまるで陛下の取り巻きの侍従や宮内庁の様に靖國の問題点にして合祀に物を言うのです。
ここで御親拝を中断した昭和天皇の御製をご覧頂きます。
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」61年8/15
「やすらけき世を祈れどもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」63年8/15
『うれいは深しと』『いまだならず悔しくもある』
この解釈や感じ方は皆さんにお任せしますが
戦犯合祀が原因はまず考えられません。
昭和20年11/20
27年10/16
29年10/19
32年4/23
34年4/8
40年10/19
44年10/19
50年11/21最後の御親拝
戦後8回御親拝された
53年10/17 14柱合祀
1975(50)8/15三木首相
私的参拝
1975(50)11/21先帝陛下最後の御親拝
1978(53)3/20筑波宮司死去
1978(53)5/26宮内庁富田長官就任
1978(53)7/1松平第6代宮司に就任
1978(53)9/前 上奏名簿提出
1978(53)10/17靖國へ所謂
戦犯合祀
1979(54)4/19朝日合祀報道
入江侍従長『いやになっちまう』発言
1985(60)8/7朝日新聞批判
1985(60)8/10中国不快感
1985(60)8/14中国靖国批判
1985(60)8/15中曽根首相公式参拝
1985(60)政教分離原則に反する不適切な通知だった、と当時の厚生大臣が国会で答弁
1988(63)4/13徳川侍従長退任
1988(63)4/25陛下記者会見体調優れない
1988(63)4/26徳川侍従参与就任
1988(63)4/28富田メモ書かれる
1988(63)4/29最後の天皇誕生日
1988(63)6/14富田長官
退任
1988(63)8/15全国戦没者追悼式に最後のご臨席
1989(元)1/7午前6時33分昭和天皇崩御
1992(4)3/松平宮司退任
1992(4)高等裁判所判決で政教分離原則に反する公式参拝で違憲
2006(13)7/富田メモ公開
明らかに三木総理の私的参拝で以降首相の参拝が政治問題化し、"だから私あれ以来参拝していない"の『あれ』とは
50年11/21の御親拝をさしているのは明確な事実
である。
富田メモは『あれ』を合祀に曲解している。
仮に『あれ』が合祀を指すのであれば51年52年はされていない。あれ以来していないとの妙な言い回し
となってしまう。参拝を使うのも不自然だ。
では何故そのような食い違いがでるのか?
昭和天皇は崩御される寸前で"悔しくもあるかきざしみゆれど"を詠まれている。祭祀基準に合わない戦犯が合祀されたから行かないのではなく、きざしが見えるけれども、行けないのである。
陛下の御意志とは関係なく首相参拝が政治問題化し行けない状態が続いているのである。
天皇陛下の御親拝は陛下ご本人の思想信条で行われるもので何人も此れに口を挟むことはできません、
このアンタッチャブルな部分と国際的孤立の恫喝を絡めての主張と政治問題化が徳川侍従長をはじめ、リベラル左派の論理です。
天皇陛下の取り巻きが厳格な伝統の皇室をまるで己がその地位にいるかのごとくの立場から権力的に不敬ともいうべき御親拝の思想信条を操ろうとした可能性が極めて高いのです。
この論理を不動のものにしようと強調、証明するのが富田メモなのであって、このように御親拝の中断にはいくつもの重なり縺れ合った罠のようなカラクリが仕掛けられているのです。
この戦犯に罪を着せ戦後その恩恵を受けて築いた地位にいるものが守るもの、己自身、戦没者遺族としての感情、近隣諸国が被害者の立場から戦犯に矛先を向けているもの、これら三者の利害関係の一致が反政府、反日勢力の根幹となるのです。
GHQにより国から引き離され宗教法人靖國神社となり、人間宣言で貶められた昭和天皇をリベラルな人間が理論武装して国民を洗脳する
戦後誤った方向に歩んでしまった日本人、
三島由紀夫でさえ修正できなかった日本人、
修正出来るのは正しい流れの歴史を学んだこれからの日本人しかいないのです。
いわゆるA級戦犯と呼ばれていた方々で、国民4000万人の嘆願と国会での閣議決定で公務死とされた方々です。
問題点
靖國合祀の基準外である。
東京裁判の受諾。
これだけなのです。たったこの事を天皇陛下の荘厳さや厳格さを利用して頑なに本来のルールをまるで陛下の取り巻きの侍従や宮内庁の様に靖國の問題点にして合祀に物を言うのです。
ここで御親拝を中断した昭和天皇の御製をご覧頂きます。
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」61年8/15
「やすらけき世を祈れどもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」63年8/15
『うれいは深しと』『いまだならず悔しくもある』
この解釈や感じ方は皆さんにお任せしますが
戦犯合祀が原因はまず考えられません。
昭和20年11/20
27年10/16
29年10/19
32年4/23
34年4/8
40年10/19
44年10/19
50年11/21最後の御親拝
戦後8回御親拝された
53年10/17 14柱合祀
1975(50)8/15三木首相
私的参拝
1975(50)11/21先帝陛下最後の御親拝
1978(53)3/20筑波宮司死去
1978(53)5/26宮内庁富田長官就任
1978(53)7/1松平第6代宮司に就任
1978(53)9/前 上奏名簿提出
1978(53)10/17靖國へ所謂
戦犯合祀
1979(54)4/19朝日合祀報道
入江侍従長『いやになっちまう』発言
1985(60)8/7朝日新聞批判
1985(60)8/10中国不快感
1985(60)8/14中国靖国批判
1985(60)8/15中曽根首相公式参拝
1985(60)政教分離原則に反する不適切な通知だった、と当時の厚生大臣が国会で答弁
1988(63)4/13徳川侍従長退任
1988(63)4/25陛下記者会見体調優れない
1988(63)4/26徳川侍従参与就任
1988(63)4/28富田メモ書かれる
1988(63)4/29最後の天皇誕生日
1988(63)6/14富田長官
退任
1988(63)8/15全国戦没者追悼式に最後のご臨席
1989(元)1/7午前6時33分昭和天皇崩御
1992(4)3/松平宮司退任
1992(4)高等裁判所判決で政教分離原則に反する公式参拝で違憲
2006(13)7/富田メモ公開
明らかに三木総理の私的参拝で以降首相の参拝が政治問題化し、"だから私あれ以来参拝していない"の『あれ』とは
50年11/21の御親拝をさしているのは明確な事実
である。
富田メモは『あれ』を合祀に曲解している。
仮に『あれ』が合祀を指すのであれば51年52年はされていない。あれ以来していないとの妙な言い回し
となってしまう。参拝を使うのも不自然だ。
では何故そのような食い違いがでるのか?
昭和天皇は崩御される寸前で"悔しくもあるかきざしみゆれど"を詠まれている。祭祀基準に合わない戦犯が合祀されたから行かないのではなく、きざしが見えるけれども、行けないのである。
陛下の御意志とは関係なく首相参拝が政治問題化し行けない状態が続いているのである。
天皇陛下の御親拝は陛下ご本人の思想信条で行われるもので何人も此れに口を挟むことはできません、
このアンタッチャブルな部分と国際的孤立の恫喝を絡めての主張と政治問題化が徳川侍従長をはじめ、リベラル左派の論理です。
天皇陛下の取り巻きが厳格な伝統の皇室をまるで己がその地位にいるかのごとくの立場から権力的に不敬ともいうべき御親拝の思想信条を操ろうとした可能性が極めて高いのです。
この論理を不動のものにしようと強調、証明するのが富田メモなのであって、このように御親拝の中断にはいくつもの重なり縺れ合った罠のようなカラクリが仕掛けられているのです。
この戦犯に罪を着せ戦後その恩恵を受けて築いた地位にいるものが守るもの、己自身、戦没者遺族としての感情、近隣諸国が被害者の立場から戦犯に矛先を向けているもの、これら三者の利害関係の一致が反政府、反日勢力の根幹となるのです。
GHQにより国から引き離され宗教法人靖國神社となり、人間宣言で貶められた昭和天皇をリベラルな人間が理論武装して国民を洗脳する
戦後誤った方向に歩んでしまった日本人、
三島由紀夫でさえ修正できなかった日本人、
修正出来るのは正しい流れの歴史を学んだこれからの日本人しかいないのです。