天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

憲法改正

2015-05-02 22:40:28 | 時事
《憲法前文》
 『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ』



元小結の舞の海秀平氏が3日、東京・平河町の砂防会館別館で開かれた公開憲法フォーラム「憲法改正、待ったなし!」で提言を行いました。

 《日本の力士はとても正直に相撲をとる。「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。

 ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じすぎている。

 「これは何かに似ている」と思って考えてみたら憲法の前文、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に行きついた。逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。

 私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。

 今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。

 憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている。》



日本は世界一憲法改正のハードルが高い。

アメリカが6回、フランスが27回、イタリアは15回、ドイツに至っては58回も憲法改正している。

日本国憲法は昭和22年5月3日に発布されてから実に68年間一度も改正されていない。

憲法9条に見るマッカーサー草案と現行憲法

《草案》
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛とわ保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

《現行憲法》
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

明らかに違う部分がある。草案の『自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。』

であるが如何に日本の反撃を恐れていたかがうかがえる。

この部分だけは当時の日本も譲れなかったのであろう。

しかしながら、当時多大な犠牲を払い、原爆まで使用しながら辛うじて勝利した米国は反撃すら恐れ、日本の侵略戦争であるとも確信していた憲法草案である。

後にマッカーサー自身、日本の自存自衛の戦争であると公式に述べ反撃すらする様子もない。

そうなると9条における永遠、普遍的な条文は少し大袈裟でやり過ぎに感じる。

この植民地としては立派な憲法ではあるが、国としては一人前とは言えない与えられた憲法は改正されなければならないことは当たり前にすらなっているのです。


宗教論

2015-05-02 20:23:51 | 歴史
はじめに
第一章 神の創造
第ニ章 一神教と多神教
第三章 日本人の宗教
第四章 信教の自由
第五章 新興宗教
おわりに
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【はじめに】
歴史を語るうえで常々感じていたことがあります。日本ほど安定した国はない、同時に日本ほど継続的な歴史を維持した国はない、と言う事です。
信教の自由が保障された日本に於いてなんびとも如何なる宗教団体に入信する自由が認められている訳ですから、誰に対しても入るなとは言いませんが、脱会者には割と寛容だと思うと同時に脱会する自由も与えられるべきであると、個人的には考えます。
学歴もない私が宗教を語るなど甚だ烏滸がましいのですが、興味のない方は飛ばしていただいて結構です。ここは違う、私はこう思うという方はツイッターにてリプライをくだされば、その都度対応いたします。

【第一章 神の創造】

海外では神を信じず、信仰の対象を持たない人間は、気違い、悪魔を信仰する者(サタン)、道徳のない者、無教養扱いにされることがある。

欧米では、これら有象無象の誤解や不利益を回避するための方便として、神や霊魂の存在を必ずしも肯定しない「思想」を持つと主張する場合もある。

もっとも近年の欧米では、無神論を口にすることへのタブー意識は低くなってきている。それでも周囲との軋轢を避けるために、無神論の代替語として不可知論を用いる場合がある。

このように無神論は神の存在を認める宗教とは対峙する関係であり、無宗教とは区別されます。

何故人は神を創造するのか、また神話も同じくそれは身の程を知ることに始まるのだと思います。

古代より凍える夜から視界を造り熱をも生み出す太陽を見て神を創造したことは誰でも容易に想像できます。

人とは子孫を残しそれを守るこれを文明の始まりと考えれば、星空を見上げ己の無力差を知り
創造主に想いを馳せるのでしょう。

キリスト、イスラム、ユダヤは基本的には同じ神を崇めています。

ユダヤでは「アドナイ」、キリストでは「ゴッド」、イスラムでは「アラー」と呼びますが、これらは全て「ヤハウェ」の事です。

神との最初の契約とされた「モーゼの十戒」によって神の名をみだりに唱えてはならないと定められているので「ヤハウェ」という名前が使われることはあまりありません。

概念、解釈の違いだけで同じ物を崇めているのです。

つまり宗教とは概念、解釈の違いにより幾らでも分裂し細分化され、宗教対立、宗教戦争の危険を孕み実際に戦争が集結するこはないのです。

【第ニ章 一神教と多神教】

一神教は絶大な力を信じることで己をたかめ国として布教と侵略により拡大して国力を増しながら拡がります。

多神教は厳しい修行によって内向きに精神性をたかめるのです。

世界三大宗教とはキリスト教、イスラム教、仏教であります。
キリスト教は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
イスラム教は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰する。
ユダヤ教は、古代の中近東で始まった唯一神アドナイを神とする。

仏教は数多くの仏である
その他、神道、琉球神道、道教、ヒンドゥー教
が多神教といわれます。

過去に於いて多神教は一神教への発展中途にある信仰だという主張が公然となされてきたが、現在では議論がされることは少なくなってきます。

ヒンドゥー教などは様々な神を具現化させ、信者には修行が課せられるキリスト、イスラムに続く信者数では世界三位になります。

【第三章 日本人の宗教】

古代より動植物にさえ霊魂が宿るというアニミズムが島国という外部から隔絶された環境で発生した神道は多神教ですが、

日本独特な精神世界を生み出したと考えるべきです。

他の宗教にある教典や教義、戒律さえもありません。したがって宗教とカテゴライズ出来るのかと言う考えもあるのです。

八百万の神といわれヒンドゥー教などの多神教ともまた違う具現化しない神です。

日本において神道はやがて仏教を吸収していきます、針供養や銭洗弁天など世界に存在するのでしょうか?

米一粒にも神が宿ると言う考え方こそが己を知った上で精神性をたかめ争いを極力避け自然の猛威と戦いながら存続してきた日本

宗教など必要のないほどの高い精神性を持った民族であるというのは決して言い過ぎではないとおもいます。

キリスト教が伝来しても爆発的に広まらなかったことは幕府の政策もあったのでしょうが、必要がなかったのでしょう。

儒教さえも学問に区分けされ広まりません。

【第四章 信教の自由】


《日本国憲法》
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

二 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


《明治憲法》
第二十八条

日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する。

《明治憲法》
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

上記のように明治の憲法に於いても信教の自由はあった。荒削りなだけに解釈で如何様にもなると考えられています。

〔ここでは戦勝国の気持ちでかんがえます。〕

『神道と言う古来からある宗教を国教として
神話より続く天皇と天皇が近代的官僚制を組織して統治権を総攬するという近代国家が成立し
連合国軍と互角に渡り合えたのは国民一丸となった宗教と天皇の立憲君主制にその強さの主たる要因がある。』


いかがでしょうかこの日本に対する脅威が日本国憲法に色濃く反映され、国と宗教、および天皇が引き裂かれる起点になったのです。

この敗戦と占領によってポッカリ空いた穴にタイミング良く新興宗教が生まれるのです。


【第五章 新興宗教】

確かにこの大戦で戦死者遺族は新興宗教によって救われたでしょう。現存する仏教だけではまかないきれないこともあったでしょう。

私が新興宗教が嫌いなのは敗戦利得者の要素を多分に感じるからです。

各地にある真新しいひと気のないビル。大学までつくり、与党として活躍する同系列の政党。

これら新興宗教にとって邪魔なものは何かを考えれば簡単に答えが導き出されるのです。

その邪魔なものを引き離し拡大の手助けをしたのが米軍が作った日本国憲法なのです。

創立僅か100年にも満たない新興宗教と2000年以上共に脈々と続く神道、天皇と日本国民。

宗教に入るな、脱会しろとは言いません。

しかしながら、日本人のDNAには八百万の神が
生まれながらにして組み込まれているのです。

初詣に行く、祭りを見に行く、神棚をつくる、
神話を聞く、なんでも構いません。

日本で生活すればどれかには自然と接することでしょう。

宗教は必要ないのです。

山の神、海の神、スマホの神でも良いでしょう感謝して大切に使うだけで日本人のアイデンティティーを呼び覚ますことができるのです。

【おわりに】

ツイッターにおいてフォロアーの方に幸福の科学、創価学会の信者の方とやりとりをして今回は自分なりの宗教論を勝手に書きました。

私としては両者仲良くやりとりしてほしかったのですが、相手の宗教を理解しようとすらせずに、水と油の様に反発してしまいます。

これが宗教であるのです。宗教とは異宗教への反発を生む。

ところが神道、八百万の神は異宗教の神もその一つの神であることから非常に柔軟であり、交わることができることからも、宗教ではないと考えます。

日本人として鳥居ぐらいは潜って欲しいですね。