天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

どうなった⁉️近隣諸国条項

2018-03-10 12:13:03 | 時事


第183回国会は、2013年1月28日に召集された通常国会。会期は同年6月26日までの150日間。


《近隣諸国条項の撤廃等に関する請願》

『近隣諸国との領土に関わる係争を抱える我が国の現状及び将来を展望するとき、我が国が将来にわたって主権国家としての国際的な発言力・発信力を正しい形で保持することは極めて重要である。また、国の将来を担う子供たちにどのような教育を施すかは、原則として他国の介入を許さない主権事項だということも明白な国際ルールである。上記の観点から見るとき、教科書の検定基準の一つとして定められた「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という規定、いわゆる「近隣諸国条項」は、根本的な欠陥を有する。現に、外国からの内政干渉・主権侵害を誘発しており、教科書検定において中華人民共和国や大韓民国等の主張に反する記述は修正を迫られ、他国の歴史観に迎合することを強いられている。近隣諸国との友好を増進させるための外交的配慮であるとするならば、外交の相互主義に基づき、近隣諸国に対しても「近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮」を求めるべきであって、現在、中華人民共和国や大韓民国等で行われている反日教育に対しても厳重なる外交措置を採るべきである。現在、尖閣諸島及び竹島についてその領有権をめぐって様々な報道がされている。「近隣諸国条項」に関わる検定基準では「社会科(地図)を除く」としているが、この島々が日本に帰属する理由を説明しようとすれば、地図の学習だけでは不十分であり、近現代の歴史的事象について言及せざるを得ないことは言うまでもない。自国の歴史を正しく学び、理解しておくことは、世界を舞台として活躍する国際人として必須の教養であると言って過言ではない。子供たちが正しく学び、理解するには、教科書が史実に即して記述されたものであることが必須の条件であり、何が史実であるかは、何事にも配慮することなく、科学的・実証的な論理や史料によって判断すべきものである。その判断をゆがめるおそれのある近隣諸国への配慮を撤廃することは、我が国の歴史教育の正常化のための喫緊の課題である。
 ついては、次の事項について実現を図られたい。

一、義務教育諸学校教科用図書検定基準及び高等学校教科用図書検定基準に定める近隣諸国条項を撤廃すること。
二、教科書記述内容に関する外国からの干渉を排除すること。』


2013年4月24日、第2次安倍内閣において、自由民主党教育再生実行本部特別部会(部会主査・萩生田光一)は「改正教育基本法には『他国に敬意を払う』という趣旨の記述があり、本条項はその役割を終えた」として見直しを行なう事を決めた。とある。


2015年8月の安倍談話では『我国が「侵略戦争」を行った』、の記述は無かった。

これで日本の言論歴史認識に変化が生まれたのだろうか。

田原総一郎を始めテレビでは未だに『日本が侵略戦争をして』と全国放送で発言している。表現の自由で野放し状態であるばかりか、他国に敬意を払うことが則ち日本が侵略戦争したと認めることであるかのように堂々と言い放っている。

近隣諸国諸国条項という言葉も理解され難い要因の一つであるのだが、早い話が日中戦争、支那事変の呼称の段階で譲歩しているにもかかわらず、中国を侵略した、侵略戦争したと戦勝国の歴史観をそのまま使い続けるのか否かとの話である。

条項の役割を終えたのであるから活発な議論を期待しているのだが未だにモリカケ問題で野党はそれを許さない。そのうち国民は忘れる、誰も言い出さなくなるとマスメディアの高笑いが聞こえてくる。


反日の日本史

2018-03-10 08:25:58 | 時事









1.初代・神武天皇以降を実在とする説
紀元前660年〜

2. 第10代・崇神天皇以降を実在とする説
紀元前97年〜

3. 第15代・応神天皇以降を実在とする説
270年〜

4. 第26代・継体天皇以降を実在とする説
507年〜


卑弥呼が〜247.8年とすると
150年〜200年頃の間の生まれか即位の可能性がある。


まず247〜248年を皇統で見て見よう、
15代応神天皇が270年即位であるので14代仲哀天皇、[仮説1]その皇后が卑弥呼である可能性が考えられる。


仲哀天皇は192年に即位し8年で亡くなっており、実在も疑いがもたれている上、即位年代にも矛盾がある。


古事記、日本書紀の編纂は712年と720年であることは確定しているので[仮説2]4説の26代からはほぼ確定する。

ここで古事記、魏志倭人伝どちらも否定することで[仮説3]3説の15代応神天皇実在説を見てみると《古事記編纂712年》➖《15代即位270年》=442年も以前の天皇が認識されていたこととなる。つまり43代➖15代=28代遡るだけで400年以上遡れる。要するに43代1367年の歴史が僅か43代を記憶するだけで把握できるのだ。これが途方も無い西暦と元号の決定的な違いであろう。

結局天皇の初代から15代くらいが神話であるとして魏志倭人伝の見た古代史に頼り教科書にまで明記することは神話の否定だけに留まらず皇室の否定を良しとする戦後史観であり限りなく反日で中国アゲであることがご理解頂けるであろう。

邪馬台国はどこにあったか、人々の暮らしはどうであったのか、卑弥呼は実在したのか、など日本史にとって取るに足りないどうでもいいことであると言えはしないだろうか。

少なくとも43代以降の天皇は権威者であることが
争いを避け日本国民が天皇を中心に安寧な国を未来永劫と維持してきた日本史、その祖先が神話へと続き自然を神々として崇めてきた事実こそが日本人のアイデンティティを形成する上で重要であり、これを受け継ぎ繋げていくことが我々に課せられた使命なのではないだろうか。

中国から見た日本の始まりなど神話に比べればどうでもいいことであり敢えて文明の始まりの差を
強調することもないし、金印を貰ったからどうなる話でもあるまい。

反日教育に終止符を打つべき時ではないだろうか

魏志倭人伝

2018-03-10 07:55:18 | まとめ・資料




『東亜古代史研究所』

倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。

(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
(注/梁書倭伝「乍開乍閉」=開いたり閉じたり)

始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。

また(さらに)、南に一海を渡る。千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、また(対海国と同じく)、ヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。

また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。

(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

(伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余戸が有る。

(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。

 (不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。

(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余戸。

(ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。


その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。

男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽から東冶にかけての東にある。

その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。

稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。

倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟(男子)は別の場所で寝たり休んだりする。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。食飲には、籩(ヘン、竹を編んだ高坏)や豆(木をくり抜いた高坏)を用い、手づかみで食べる。

人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯(かりもがり)する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは(白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。

その行き来し海を渡って中国にいたる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人を近づけさせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイが慎まなかったというのである。

真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、?(楺櫪)、?(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)。ショウガや橘、山椒、茗荷などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない。アカゲ猿や黒雉がいる。

その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。
その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。
大人を見て敬意を表す場合は、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。


その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。


女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史の如きものである。(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。

下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。貴人の返答の声は「アイ」という。比べると(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。

その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。

女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。

倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。

景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。

制詔、親魏倭王卑弥呼。
 帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。


その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。


正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた。

正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。

卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。


壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。