
今日の知事と市長の対立をこの写真から誰が想像出来ただろうか。
不自由展が再開し、名古屋の河村市長が県庁前で座り込みを始めた。

なんとしても見せたい大村知事と
なんとしても見せたくない市長、
『表現の自由に名を借りて、世論を暴力的にハイジャックするのはやめてくれ』と河村市長
座り込み参加者は
「県は公金の不正使用を認めるな」
「知事は名古屋市民の声を聞け」
「天皇の御真影を燃やすな」などとの呼びかけた
為政者としてどちらも間違ってはいないかも知れないが、これだけ問題となった展示を表現の自由だけに焦点を絞って強行するのはまさに名古屋市長の言う【暴力的ハイジャック】である。
公的施設が公金を投入してやることか?との批判が主に聞かれるが、わかりやすい例に喩えて考えてみよう。
大村知事がたった一人の表現の自由を守る為に公金を使うとしよう。その名が『ろくでなし子』ならどうであろうか、自身の局部を3Dデータにし配布することをなし子側は『データにわいせつ性はなく、創作活動の一環』と主張したが、猥褻の判決で敗訴している。
つまり作家が芸術と判断しても猥褻罪となれば表現の自由は負けるのだ。
民法第90条は「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為、無効とする。」としている。
公序良俗に反する行為ならば表現の自由は無効化するのだ。
従って大村知事はろくでなし子のソフビを県のマスコット人形にして公金を支出する様な事と同様なのだ。
今回の不自由展作品が公序良俗に反するか否かを裁判でなくとも県民投票で決めれば良いのである。
河村市長の座り込みの心意気に尾張名古屋の住民が応える術は県民投票なのである。このまま大村知事の意のままの再開は愛知県が終わるのを指を咥えて見ているよなものなのだ。