もう一度特攻を考える。
特攻で死ぬのが解っていながら何故笑えるのか、
どうして捏造までされ貶められなければならないのか。
まずは私のアカウントに届いたツイッターのリプライをご覧いただきたい。
安芸の墓掘り人
@BurzumYutakaさんからの引用文
特攻作戦を批判するものは葉を見て森を見ていないものだ。
日本本土に近づくほど、日米軍の兵の消耗比が小さくなっていった。
南での戦いは数十人:1→ 硫黄島では1:1までになり、沖縄攻防がくる。
この流れで捉えねばならない。
それを踏まえると、神風特攻隊等のあらゆる特攻戦の
米軍からみればキチガイにみえる必死の戦いは、
米軍兵にとって恐怖であったろう。
日本兵は自らの命と引き換え米軍兵の命も奪おうというのだから。
この神風特攻隊をはじめとするあらゆる特攻戦の必死の戦いが、
ナチス・ドイツに対して行われた殲滅戦から日本を救ったのは紛れもなき事実だ。
アメリカから見れば、日本殲滅戦はリスク=米兵の消耗が高すぎると判断して不思議ではない。
結果は象徴天皇制を利用した占領統治である。
これが国を守るということだと思う。
日本は殲滅戦を免れた。これらが特攻作戦の重要な結果だ。
特攻作戦で散っていった若い兵士の思いは叶えられたのだ。“日本を、家族を守ること”
以上が安芸の墓掘り人さんからの投稿。
要するに特攻は日本にとってナンセンスや犬死にではない
象徴天皇と占領政策を受け入れることで
日本を日本人を守ることが出来たのだから特攻隊の目的は達成された。
私も同じように思う。
ですがこの占領政策が70年経とうとしている現在でも特攻は悲劇、犬死にだ、命令した軍上層部が悪い、少しでも肯定したり、称賛すると特攻を美化するな、『けしからん』という声があがる。
戦時中から生きるもの、遺族から言われては反論すら言い出せない。全て占領政策での東京裁判史観、自虐史観、戦勝国側からの史観で脳が処理していく。
日本軍が全て悪い、侵略と植民地支配した、従軍慰安婦だ、南京虐殺だ、これで日本は守られているのか?助かったと言えるのか?
特攻で死んでいった兵士
国を守る為に死んだ兵士
戦犯の汚名を着せられた軍人
英靈は浮かばれるのだろうか
終戦間近の先人達が命懸けで守った国と私達が哀れみの感情や軍部批判の眼差しで思うことを知ったらと考えてしまう。
一番望んでいるのは英雄視され感謝されることだとしか思えない。
それが敵国の歴史観では哀れみ蔑むことで強かった日本軍の復活を阻止するための力となり、支那、朝鮮、反日日本人の企み、運動となる。
さらに日本人の多くを蝕んでしまってその矛先を靖国、旧日本軍、特攻に向けようとする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/5e/cf272d9e638147f415684794051ba068.jpg)
特攻の父とよばれた大西瀧治郎中将だが、
上からは特攻を指示するなと言われ板挟みの状態で最終的には彼の指示で敷島隊の特攻がはじまる。彼もまた被害者かもしれない。
その決断は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した事からも伺い知ることができる。
勝つ為のことは全て試すそれが例え人間爆弾でも
そんな時代、赤紙がおめでとうと渡されるそんな時代、八紘一宇、アジアの解放、特攻に憧れる、そんな時代が確かにあったのだ。
一方、反対派のドン【ナベツネ】だが、
『靖国で会おう、お国の為』と嘘八百といい、
『特攻隊はむりやりに飛行機におしこまれた場の羊』とまでいい放った。
特攻、軍部批判の最たる人が【ナベツネ】こと渡邉恒雄である。
赤紙で召集され戦争に加担しておきながら、上官に殴られて軍部、特攻、靖国を批判するなどはルサンチマン以外の何者でもない。
赤紙を拒否し非国民として逮捕されているものだけが批判できるのかもしれない。
軍部批判が世に蔓延している根本となっている。
中央公論 2006年10月号に掲載された、渡邉恒雄 のコラムを抜粋。
『世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織と化した海軍をほかに知らない。』
『人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない』と言い切る。これを誰が否定しえようか。
〈俺が否定してやる。〉
◆ 非人間的特攻作戦
軍の非人間的作戦の中で、今でも許せないのは、特攻作戦である。学生時代、私たちが徴用されたのは、特攻機製造の鉄工場であった。そこで一個不良品を作れぱ、一人の徴兵された学生の命を救えると思って、鋳型に流し込む溶けた鉄の中に、ひそかに石ころを投げ込んだこともある。
◇〈お門違いも甚だしい、ひねくれた非国民ですね、これで事故が起こり死者が出たり、敵国に協力しているとは思わなかったのだろうか?
非人間的なのは貴方だ〉
◆ 誰が『特攻』を推進したのか
本格的航空特攻隊編制の命令を最初に出したのは、大西瀧治郎中将だと言われる。大西中将は、敗戦後自宅で割腹し、介錯を拒み、一五時間のたうち回って苦しみ死んだ。 しかし、彼は当初、非人間的特攻作戦に慎重であったようだ。彼は幕僚たちの提議したこの残虐非道な作戦を決するまで一年あまり躊躇し、実行にあたっては、『これは統率の外道である』と自認して語っている。また『特攻に狎れるな』とも述べており、この非道な作戦に心中抵抗があったことがわかる。とはいえ、ついにこの作戦を隊員に指示した時の訓話の内容は、超精神的皇国史観で貫かれ、理性のかけらもなかった。 人間そのものを兵器として使用する特攻作戦が立案されたのは、大西の決断する一年あまり前(四三年八月)のことで、推進者は海軍軍令部の黒島亀人第二部長、中沢佑作戦部長らであった
大西は彼らの進言を一年あまり抑えた。サイパンが陥落して敗戦が決定的になってから、ついに及川古志郎軍令部総長に提議した。及川大将は『涙を飲んで申し出を承認する。しかし、あくまで命令だけはしないでくれ』と語ったという。 この大西が主導し、軍令部が従ったとするのは、中沢が戦後語った責任回避のための作り話だという説もある。多数の青年将兵を特攻で殺した立案者の中沢は、戦後生き残り、講演などで特攻作戦は大西の決定であり、軍中央は考えていなかったと述べている。
一応、『志願』の形をとって実行した特攻の第一号は、フィリピン作戦での、関行男大尉の率いる特攻部隊であった。特攻を命じた上官に対し、関大尉は、『体当たりせずとも、爆撃で戦果をあげうる』と反論したが、結局命に服したという。関大尉もその功により、『軍神』とされ、二階級特進をした。 特攻隊の編制は、形式的には志願で始まったが、間接的強制、そして実質的な命令に進んだ。その結果、未来ある若い学生出身の下級将校たちが、肉弾となって意味もなく殺された。 特攻はあの戦争の美談ではなく、残虐な自爆強制の記録である。イスラム原理主義者の自爆は宗教上の妄信や、指導者のマインドコントロールによる自発的自爆だが、『特攻』はほとんどが実質的には『命令と強制』であった点で、イスラム・テロリストのケースとはまったく違う。 悪い意味で合理的な計算に立ち、こういう非道、外道の作戦を考え、実行した軍の参謀や司令官、さらには、人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない。
黒島亀人,中澤佑コンビは1944年8月人間魚雷回天を正式兵器化した。同年9月、徳山において基地整備隊員と錬成に着手。
海軍は関の特攻に先立ち1944年9月13日、大森仙太郎を特攻部長に任命。一元管理した。大西瀧治郎着任前に特攻隊名を決定している。
一般的には、特攻一号は関 行男大尉(兵学校出身者)を嚆矢とするが、関より4日早い10月21日に久納 好孚(くのう こうふ)第一次神風特別攻撃隊『大和隊』隊長として出撃未帰還となった。 彼は学徒兵で源田 實の意に叶わなかった。 少なくとも 学徒兵では"見せ金" としての値打ちがなかったのだ。
◇〈まず特攻の嘘についてだが、片道分の燃料しかなかった。
渡邉も主張している回天のハッチは内側から開けられない。
この決定的な嘘に不正確な情報をミックスしながら自分の主張に近付けていくのである。
大西の発案は事実だが上からの命令でなく、戦果の上がる作戦がなく、その雰囲気が自然発生するのを耐えて待っていた。
ナベツネの様な推測ではなく、当時、その時大西といた夜間爆撃の名手とまでいわれた美濃部正少佐が戦後残した言葉がある。
『戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。
不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。
戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない』
『ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている』
とも語っている。その場にいないものが批判出来る程なま易しいものではなく、特攻したもは愛国心に満ち勇敢で崇高だったのだ。
久納だが関らと6人で出撃しているが、敵を発見出来ずに5人は帰還、久納だけが、特攻出来ない時はレイテ湾に行くと言っていたことから一人で第一号として特攻している。
このことが明るみに出てしまうと、片道分の燃料の話しが捏造であることがバレてしまうので、隠されているのが真相だ。
◆ 『桜花』特攻の発明者は
特攻作戦も初期には一定の“戦果”を上げたが、直ちに米軍も対抗策を強化した。特攻の標的
をとっていたから、特攻機は目標に近づく前に、次々に撃墜された。そこで費用対効果を考えて発案された究極の“新兵器”が、人間爆弾『桜花』と入間魚雷『回天』である。 『桜花』は、プロペラも脚もない人間爆弾そのものだ。『一式陸上攻撃機』を母機として吊るされて、出撃した。 前部に1200キログラムの炸薬が装填され、後部には三本の火薬ロケットが装備されている。小さな翼がついているが、人間一人が搭乗したこのグライダーのようなロケット滑空機は、もはや飛行機ではない。体当たり専用の人間爆弾である。目標に達する前に切り離し、母機は航空機節約のため帰還する。 しかし帰還能力がない人間ロケットたる桜花乗員は確実に死ぬ。さらに、通常積載量の二倍になる約二トンの重い子機『桜花』をぶら下げた母機『一式陸攻』は、飛行能力が低下するから、 目標に達する前に母機・子機もろとも撃墜された。55機が出撃し、 米艦に命中したのは2機だけで、ほかは全滅した。この“新兵器”も作戦上ほとんど何の効果もなかった。 敗戦直前のこの“新兵器”を『桜花』と名づけたのは、特攻推進者の一人、 源田 實中佐であって、桜花とともに死んだ特攻隊は『神雷隊』と呼ばれた。戦果としては、駆逐艦一隻撃沈しただけで、当初の目標だった空母や戦艦に対しては、 命中ゼロ。 『桜花』の命名者源田中佐は戦後生き残り、自衛隊の空幕長を経て、参議院議員として栄華を享受している。 この桜花特攻を発案し、上申し、実現させたのは、大田正一少尉であった。 大田は兵士上がりのノンキヤリアの下級将校でパイロットでもない技術士官であった。 彼は、このような無謀な『非人道的新兵器』を作った『功労者』として、当時の新聞には賞賛的に報道された(たとえば1945年5月31日付『北海道新聞』)。彼はまもなく中尉に昇進している。 このようにして、多数の若者を、生還絶対不可能な兵器によって殺した大田は、終戦直後、八月十八日に、茨城県の海軍神ノ池飛行場から、ゼロ式複座練習戦闘機で、鹿島灘の沖合に向け飛び立った。遺書まで残していた。 見た者は、桜花特攻推進の責任をとって、自爆すべく飛び立ったと思ったようだ。ところが、彼は反転北上した。金華山沖の洋上に着水し、北海道の漁船に救われ、 上陸した。にもかかわらず、彼は『航空殉職』とされ、一階級特進して『海軍大尉』となり。『戸籍抹消済』となっていたのである。 逃亡後、彼は、はじめは戦犯に指定されることを恐れ、さらに戸籍がないので定職につけず、各地を転々としながらも、二人の子供まで作っている。 対ソ密貿易をはじめ、闇屋のような商売を続けながら、一時、消息を絶ったが、実は1994年まで生き延びていた。 これが、あの戦争中の日本軍の野蛮な制度、組織、思想、道徳観の裏側の真実を示す適例である。 このことは、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』上巻(文春文庫)にくわしく書かれている。また『大田少尉』の名は、『特攻』について書かれた複数の書に 『桜花』の発案者として明記されている。それにしても、徹底的に大田の戦後の行動を追跡した秦氏の執念には驚かされるし、 また学者として事実をここまで調査し、検証した秦氏の努力を賞賛したいと思う。 大田の行為は、非道徳的であり、追及されるべきは戦争責任というよりは、非人間的な戦争犯罪だと思う。大西中将は、責任をとって割腹した。大田は巧妙に逃げて生きながらえた。 『桜花』を発明、使用を推進した大田は、下級将校とはいえ、二十歳前後の若者を多数死地に追い込んだ。その責任は許されるものだろうか。彼の進言通り桜花特攻を承認し、 賞賛さえした軍の上層部も、この非人間的、犯罪的行為の共犯者というべきだ。 』回天』も同様な特攻兵器であったが、多くの『特攻』に関する書籍に詳述されているので、ここでは省く。
◇〈激しく太田少将を批判しているが、ただの発案者である、特攻機が打ち落とされる映像を見ればわかるが、プロペラ機の速度では敵艦までたどり着けない程の対空砲火だ。ジェット機は自然な流れの発案でありことさら非人道的なことではない。
琵琶湖に桜花のカタパルト発射基地が本土決戦のために作られたが終戦で使われることのないままとなった。回天も戦果が上がらずに蛟竜という魚雷潜水艦が大量生産されたが終戦で使われることはなかった。
もし、仮に本土決戦となっていれば、若き特攻隊員の命が更に失われた事だろう。しかしながら、そのおかげで国民の命も救われたはすである。このように只人間を虫けらのように無理矢理特攻させたのではなく他に有効な手段
戦果のあがる手段を模索していたのである。〉
◆ 天皇の戦争責任は
次に天皇の戦争責任について言っておきたい。 明治憲法上、天皇は無答責であったが、統帥権は天皇に直接帰属し、内閣の輔弼の対象外であった。 したがって、統帥の最高権力者として、法的形式的には天皇に責任があるとも言える。 しかし、歴史の実態から見て、天皇は外界から隔離されて宮中にあり、 内大臣を通じなければ自由に政府や軍の幹部にも会えなかったし、 謁見した政府が軍首脳も真実の状況を伝えることはほとんどなかったと思われる。それでも、 張作霖事件、二・二六事件では御決断の効果もあった。だが、昭和戦争のほとんどの局面に関しては、 正確な情報を知り得ず、限られた情報源から判断せざるを得なかったのではないか。 終戦時、近衛師団が皇居に乱入し、天皇を拉致、隔離し、また終戦詔勅の録音盤を暴力で奪取し、 降伏という天皇聖断を阻止しようとした。反乱軍のテロの恐怖は、天皇個人の側近に及んだ。事実、 鈴木首相の家は焼かれたし、8月15日未明、近衛師団の将校によって、 森赳近衛師団長は殺害されてしまったのだ。 昭和戦争の多くの局面で、天皇に国政を左右し、国運を決する判断と軍部に対する下命を求めることは、 不可能であった。率直に言って、昭和戦争の時代天皇には統帥の最高権力者としての能力は奪われ、 または保有し得なかったことは間違いない。したがって、昭和天皇の責任を間うのは、妥当性を欠くし、 一方、終戦と戦後の混乱を収束したその国民的人気と徳望と努力は十分評価される。 よって、我々の検証では天皇の戦争責任を闘わないこととした。
◇〈これは言語道断、たとえナベツネであっても口にしてはならない問題であると共に
民草の分際で調子にのるのもいい加減にしろ不敬である。〉