

『百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。』
つまり、進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。に見られるように針路を誤ったからこそ8年もの戦争に引き込まれたと言えるでしょう。
"引き込まれた"と表現したように発端である盧溝橋事件当時、支那駐屯軍は実弾を装填せず演習中でありました。しかも5600名に対し国民革命軍100.000名です。おいそれと戦争など始められる訳がありません。
従って積極的に戦争を始めたのではなく、停戦協定を結んで寧ろ戦争とならないように努めました。
通州事件や大山事件などが立て続けに起きて暴支膺懲へと繋がるのです。
後に大東亜共栄圏という日本が指導者として欧米勢力をアジアから排斥し、日本・満州国・中華民国を中軸とし、フランス領インドシナ(仏印)、タイ王国、イギリス領マラヤ、英領ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、イギリス領ビルマ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インド帝国を含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策の為に戦うこととなります。
以上、答えとしてはアジアの国々との共存共栄の為に8年もの間戦ったという事になります。
大東亜戦争です。