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田原総一郎氏が現代ビジネスに靖国の総論を寄稿されています。一部登録が必要ですので、下記コピペ以外のものは登録してお読みください。
ステマじゃないです。
その表の文章だけでも充分長いのでお読みになって私と感想が違う、田原が正しい、田原を信じるという方は登録へ。
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現代ビジネス
田原総一郎
安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を提唱している。70年前、GHQによって作り上げられた日本の制度は、どこに向かおうとしているのか。「戦後」を一貫して見つめ続けてきた著者、畢生の新連載!
《連載開始にあたって》
「私は、日本を、21世紀の国際社会において新たな模範となる国にしたい、と考えます。
そのためには、終戦後の焼け跡から出発して、先輩方が築き上げてきた、輝かしい戦後の日本の成功モデルに安住してはなりません。憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組みの多くが、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっていることは、もはや明らかです。
(中略)
今こそ、これらの戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出をすべきときが来ています」
安倍晋三首相は、2007年1月26日の、第一次政権の施政方針演説で、実現すべき目標として「戦後レジームからの脱却」を明言した。しかし、このスローガンによって、安倍首相は、いわば火だるまのような状態となった。
野党はもちろん、多くのマスメディア、そして自民党内でも少なからぬ批判の声があがった。そのためか、第二次政権の国会演説では「戦後レジームからの脱却」は聞かれなくなったが、2014年3月14日に民主党の野田国義の質問に対して、「日本は平和国家としての道を歩み続けてきたわけでございますが、しかし同時に、この憲法自体が占領軍の手によって作られたことは明白」だと答弁した。つまり憲法は改正すべきであり、それが「戦後レジームからの脱却」の柱の一つだと述べたのである。
今年は、戦後70年になる。そして70年間も「戦後」と称し続けているのは異常である。こんなにも長い年月、新しい時代、新しい日本のあり方が打ち立てられていないわけで、「脱却すべき」という安倍首相の気持ちはよくわかる。しかし、問題は、「戦後レジームから脱却」していかなる国にすべきかということだ。
【東条英機の尋問】
1947年12月26日、この日東京・市ヶ谷の法廷には、日本の新聞社はもちろん、AP、UP、フランス通信、タス通信など世界の主要通信社が記者とカメラマンを派遣して待機させていた。この日の午後から、東京裁判のいわば「主役」である東条英機の弁護立証と尋問がはじまることになっていたからである。
朝日文庫の『東京裁判〈下〉』(朝日新聞東京裁判記者団)によれば、東条は、いつもは色あせた軍服を着ていたが、この日はだれが差し入れたものか、「仕立て下ろしの緑がかった軍服」を着ていたという。
同書は「なんといっても戦争の最高責任者、全世界の耳目がひととき、このたぐいまれな独裁者、八千万国民の運命を、あの無謀な真珠湾の一撃に賭けた大賭博師の告白に集注されたのも当然であった」と書いている。
その東条英機は、1884年(明治17年)7月30日に、東京府麴町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父親は当時陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)の東条英教で、英機は三男だったが、長男と次男はすでに他界していた。中学校を卒業すると陸軍幼年学校に入り、1905年(明治38年)3月、日露戦争の最中に陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任官した。
そして陸軍大学校に挑戦して一度は失敗するのだが再度挑戦して入学、歩兵第一連隊長、参謀本部課長などを経て、関東憲兵隊司令官、そして関東軍参謀長となり、岸信介、松岡洋右、星野直樹などとともに「満州の二キ三スケ」と称された。
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(勝手に補足)
東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)
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そして近衛文麿内閣で陸軍大臣となり、近衛の後をうけて1941年10月に首相となるのだが、内大臣の木戸幸一によれば「勅命を重んずることは、他の軍人に比して格別だった」ということだ。
木戸が近衛の後の首相に戦争強硬派の東条を選んだ理由を聞いて、昭和天皇は木戸に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と語ったそうである。日米交渉の進展を期待した昭和天皇は、強硬派の東条だからこそ戦争が回避できると考えたのであろうか。
【靖国神社の誕生】
靖国神社は明治維新とともに誕生した。1869年(明治2年)6月29日のことである。場所は東京・九段坂上で、軍務官知事であった仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきらしんのう)の命によって、副知事であった大村益次郎たちが建設地を決めたのだという。
なお、当初は東京招魂社と称されており、明治2年6月に創建されたのは、この年の5月に、いわゆる官軍と親幕府軍の戦いである「戊辰戦争」が終結したからである。
「戊辰戦争」とは、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争(五稜郭の戦い)までを指す勤王と佐幕の内戦であった。そして、明治2年の時点で合祀された戦没者は3588名であった。佐幕側、つまり旧徳川幕府側の戦没者は合祀されていない。
なお、戊辰戦争には勝ったとはいえ、明治新政府の基盤は盤石とはいえず、そこで戦没者を名誉の戦死として顕彰する必要があったのだといわれている。
さらに、当初は建設地として、彰義隊(しょうぎたい)との激戦地となった上野が有力視されたのだが、上野は戦死した彰義隊の霊がさまよう亡魂の地として敬遠されたのだということだ。九段は元歩兵屯所跡で、約33万平方メートルもの広さがあった。現在の敷地の約3倍にあたる。
そして招魂社は、1872年(明治5年)から陸軍省と海軍省が共同で所管することになった。
しかし、戊辰戦争の後も国内状況は安定せず、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」からはじまって、「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、さらには征韓論で下野した西郷隆盛らによる「西南の役」などが続発した。そしてその度に官軍側の戦没者は招魂社に合祀された。だが、これらの戦いの戦没者たちは、いずれも戊辰戦争では官軍側だった人間たちである。そこで招魂社は、戦いのつど官軍と賊軍との差異を明確化するという役割を果たした。西郷隆盛や江藤新平たちは招魂社に合祀されていない。
そして明治7年1月27日、陸軍卿だった山県有朋を祭主とする例大祭に、はじめて明治天皇が行幸した。だが、この時点では、東京招魂社は神社を所管している教部省社寺局の管轄外であり、神社としての扱いは受けていなかった。
明治12(1879)年6月4日、太政官達(だじょうかんたっし)によって東京招魂社は靖国神社と改称することになり、歴史上の「忠臣」たちを祭神とする別格官弊社に列せられて、専任の神官(宮司)を置くことになった。
靖国神社がほかの神社と何よりも異なっているのは、歴代天皇による祭祀の継承が決められたことである。
【合祀はなぜ強行されたか】
筑波藤麿宮司に代わって第六代の靖国神社宮司に就任したのは、元海軍少佐で、戦後は陸上自衛隊に入り、一等陸佐として退官した後は、福井市立郷土歴史博物館長をつとめていた松平永芳であった。
松平は、幕末の福井藩主松平春獄の孫で、最後の宮内大臣を務めた松平慶民の長男にあたる。彼は少年時代の一年間、平泉澄の邸にあづけられ、それ以来、平泉を師として仰ぐようになった。
平泉は、いわゆる戦後体制、つまり日本の昭和の戦争が侵略戦争だったとする「東京裁判史観」の打破を訴えた人物で、実は筑波前宮司も平泉と浅からぬ関係にあったのだが、筑波はそれゆえに、戦前の体制を否定していて、松平とは対極にあった。
松平は、宮司退任直後の2002年、A級戦犯の合祀を決断した経緯を、次のように述べている。
「私は就任前から『すべて日本が悪い』という『東京裁判史観』を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから『最終的にA級はどうするんだ』という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期は宮司預かりとなっていたんですね」
そこで、前章の最後で記したように、「9月の少し前でしたか、『まだ間に合うか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思い切って14柱をおいれした」ということになったのだ。
A級戦犯合祀について、松平はいわば確信犯だったわけだ。
当時の侍従次長で、1985年から88年まで侍従長を勤めた徳川義寛の回想録を引用しよう。
「靖国神社の合祀者名簿は、いつもは10月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出して来た。『A級戦犯の14人を合祀した』という。
私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句をいったが……私は東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。永野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから。
でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた……国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ」
【秘密裏に行われた合祀】
徳川の証言については、昭和天皇が亡くなられた直後の1989(平成元)年1月16日付の朝日新聞に、次のような記事が掲載されている。
「亡き陛下は、A級戦犯が合祀された後の靖国神社へは行かれなかった。当時の侍従次長だった徳川義寛参与によると、昭和53年秋にひそかに合祀される前、神社側から打診があり、『そんなことをしたら陛下は行かれなくなる』と伝えたという。
徳川の証言をつなぎあわせると、合祀の前に靖国神社側から打診があり、天皇が『反対』だという『内意』を伝えたにもかかわらず、神社は合祀を強行し、1か月後に合祀者名簿を届けてきたという経緯になる。
だが、A級戦犯の合祀の事実が広く知れわたって問題になることを恐れたのであろう、靖国神社側は、秘密裏にことを進め、合祀した翌日、17日の当日祭の挨拶でも、松平宮司は、東條以下の名前はあげず、『白菊会に関係おありになる一四柱の御霊もその中に含まれております』と述べただけであった。白菊会とは、ABC級戦犯遺族会のことである。」
靖国神社の秘密裏作戦は功を奏したというべきか、A級戦犯合祀が世間に知られて問題になることはなかった。
ところが、1979(昭和54)年4月18日、共同通信の三ケ野大典記者が、A級戦犯合祀をスクープした。合祀の半年後だった。
そのために、首相の参拝、そして天皇の参拝が大問題となったのだが、共同通信のスクープ時点での靖国問題は次元が異なっていた。
1975(昭和50)年8月15日、三木武夫首相が、終戦記念日に首相としてはじめて参拝したことが大きな話題となった。もちろん吉田茂以来、多くの首相が参拝していたのだが、いづれも終戦記念日ではなく、話題にもならなかった。ところが、75年は終戦30年目にあたり、三木首相の参拝が、「公人」か「私人」としてなのかが問題となったのだ。三木首相は記帳は氏名だけで、玉串料も自弁しているとして、「私人」であることを主張した。
その後、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸などの各首相が参拝しているが、いづれも「私人」としてであった。
【昭和天皇の真意】
問題は天皇の靖国神社参拝であった。
昭和天皇が75年11月21日に、戦後八度目の靖国参拝を行なったのだが、このとき三木首相の参拝時同様に「公人」か「私人」かが大きな問題となったのである。だが、天皇が警固なしに外出することはあり得ず、したがって天皇の私的参拝はあり得ない。
このとき、天皇の靖国参拝に対して強い抗議の声が上がり、それ以後、昭和天皇は一度も靖国神社を参拝しなくなり、現在の天皇も参拝していない。
靖国神社にA級戦犯が合祀されたのは78年のことである。だから、昭和天皇が参拝しないのは75年の参拝時に強い抗議の声が起きたためと捉えられていたのだが、それを覆したのが、2006年7月20日の日経新聞によるスクープであった。
「A級戦犯靖国合祀、昭和天皇が不快感」
スクープしたのは井上亮記者で、宮内庁長官を務めた富田朝彦(1920~2003)の在任中のメモを報じたのである。富田の未亡人のもとに通って信頼を得たようだ。
メモは、1988年4月28日に昭和天皇がA級戦犯について語った部分であった。
私は 或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取(ママ)までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ
このメモの「私」とは昭和天皇のことで、松岡とは、近衛文麿内閣の外務大臣として、国際連盟からの脱退、三国同盟の締結などを主導した松岡洋右のことである。白取とは、駐イタリア大使としてやはり三国同盟の締結に貢献した白鳥敏夫のことである。ともにA級戦犯として極東軍事裁判にかけられたが、松岡は裁判の途中で病死した。白鳥の方は終身禁固刑となり、服役中に病死した。
この富田メモは、昭和天皇が靖国神社への参拝を停止したのは、はっきりと、A級戦犯を合祀したことにあるとするものである。新聞報道が行われた当時は、メモの信憑性をめぐって議論がまき起こり、内容を否定する人間も少なくなかった。
秦郁彦氏は、「メモを信じられないし、信じたくないという人も少なくないが、ここまで決定的とみられるメモが出て来ては、これを踏まえた議論にならざるを得ないだろう」と述べている。
だが、松平宮司は、こうした展開になることを予想していたようである。
「A級戦犯合祀に踏み切った松平永芳は、宮司退任の翌年、『祖国と青年』誌の平成5年10月号で、『私の在任中は天皇陛下の御親拝は強いてお願いしないと決めていました』と語っている。さらに、共同通信の記者、松尾文夫に対しては、『合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、さからってやった』とさえ語っている」(『靖国神社』島田裕巳 幻冬舎新書)
松平としては、何としても「東京裁判史観」を否定したかったのであろう。
【中曽根首相の「公式参拝」】
もう一つ、大きな波紋を起こした出来事について記すことにする。
1982年11月、鈴木善幸の後を受けて、中曽根康弘が首相に就いた。そして、85年8月15日、終戦40周年の当日、内閣官房長官と厚生大臣を伴い、公用車で靖国神社に赴き、拝殿では「内閣総理大臣 中曽根康弘」と記帳した。つまり、A級戦犯合祀後に、公式参拝を行なったのである。
さらに本殿には「内閣総理大臣」と記された生花を供え、その献花料3万円を公費として支出した。
ただし、中曽根首相は、参拝する際に、正式のかたちである二拝二拍手一拝という形式はとらず、10秒間にわたって深く一礼しただけであった。そして宮司の祓いも受けなかった。松平宮司は、祓いを受けなければ参拝にはならないとして、当日は中曽根首相を出迎えなかった。
中曽根首相が、あえてこうした方法をとったのは、彼流に考えて政教分離の原則に反しないようにするためであった。そこには、靖国神社法案についての内閣法制局の見解も影響していた。
もう一つ、実は中曽根首相は、靖国参拝を前に周到に中国の胡耀邦主席に働きかけて了解を取り付けたつもりでいたのだが、中国国内でその胡耀邦への批判が強まり、日本に対しても、中国から厳しい公式の靖国参拝非難が発せられ、韓国、香港、シンガポールなどからも批判の声が上がることになった。
中曽根流の公式参拝は失敗に終わり、それ以後、首相の靖国参拝は、公式、非公式を問わずタブーとなった。
2013年12月26日、自民党内閣の安倍晋三首相が靖国神社を参拝した。この日は第二次安倍政権が誕生して、ちょうど1年にあたっていた。
第一次安倍政権の時代には、靖国神社参拝が実現できなかったので、安倍首相にとって靖国参拝が悲願だったのである。また安倍首相を強く支持してくれている、自民党の右派の同志たちに対する公約でもあった。
当然ながら、予想はされていたが中国や韓国は首相の靖国参拝に猛反発をした。中国とは尖閣諸島をめぐって緊張関係にあったし、韓国は従軍慰安婦問題で日本政府が責任を取らないと批判を続けていて、そこへわざわざ非難を強めさせる材料を作ったのだともいえた。
【安倍政権に向けられるアメリカの不信】
だが、繰り返しになるがそこまでは予想の範囲だった。事態が異なったのは、これまで、たとえば小泉純一郎首相が、繰り返し靖国神社を参拝したときにも批判めいた言動を取らなかったアメリカが「失望している」と強く表明したことであった。
まずアメリカ大使館が「disappoint」と表明し、本国の国務省も同じ言葉を繰り返した。
これは安倍政権にとって、そして安倍首相にとっても衝撃的だったはずである。
それにしても、小泉首相が靖国神社を参拝したときには、何の非難めいた意思表示をしなかったアメリカが、なぜ「失望した」と強く打ち出したのか。
どうも、アメリカ政府、少なくともアメリカ政府内に安倍首相に疑惑を抱いている勢力が少なからずいるようだ。安倍首相が靖国参拝をするのは、言ってみれば「東京裁判史観」に疑問を持ち、A級戦犯を戦争の犠牲者だと捉えているのではないかと疑っているのである。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」と主張しているのは、「東京裁判史観」からの脱却ではないかと疑っているのである。
もちろん、安倍首相はそのことを百も承知している。そしてアメリカが大切な同盟国で、日米友好が大事だともわかっている。だが、自民党の中に「東京裁判史観」に疑問を抱いている議員が少なくないことも事実である。
いささか話が脱線した。
中曽根首相の靖国神社公式参拝に対して、中国、韓国などから強い非難を浴び、日本国内でも批判の声が強まったので、翌年からの公式参拝は断念し、それに先だってA級戦犯の分祀を実施することで事態の根源的な収拾を図ろうと試みた。このあたりが、戦後政治の総決算を打ち出した中曽根首相らしいやり方である。
中曽根首相は、A級戦犯分祀の下交渉を、A級戦犯として刑死した板垣征四郎元陸相の長男である、板垣正参議院議員に依頼した。板垣議員は刑死したA級戦犯の7人の遺族を回って、「靖国神社の合祀から降ろすことに同意してほしい」と署名簿を示した。東條家以外は、いづれも分祀に賛成したのだが、東條家は嗣子である輝雄(元三菱自動車工業社長)が、同調できないと拒絶したのである。
理由は、「東條家の次男としての肉親の情から分祀に反対したのではなく、他国の干渉に屈する形で分祀を認めることはできないという考えでした。分祀の取り下げは、東京裁判という戦勝国の一方的な断罪を受け入れることになる。それでは、日本の国と家族のことを思って一途に散って行った246万余の英霊に申し訳ない、というような気持ちだったのではないかと思います」と、東條元首相の孫にあたる東條由布子氏が証言している(『靖国問題』高橋哲哉 ちくま新書)。
【A級戦犯は戦争犯罪者だ】
また、靖国神社の松平宮司も分祀を明確に拒否した。後藤田正晴官房長官の依頼を受けて靖国神社を訪れた大槻文平・靖国神社奉賛会会長と松平宮司との会見は次のようなものだった。
大槻会長 「わたしは、専門家じゃないのでよくわからんが、A級戦犯の合祀を取り下げることができないだろうか」
松平宮司 「それは絶対できません。神社には『座』というものがある。神様の座る座布団のことです。靖国神社は他の神社と異なり『座』が一つしかない。250万柱の霊が一つの同じ座布団に座っている。それを引き離すことはできません」
大槻会長 「そうですか。じゃあ、できないということだけ伝えておきましょう」(高橋哲哉・前出書より)
松平宮司は、天皇が参拝しないことを承知でA級戦犯の合祀を敢行した確信犯であり、理由はむしろ付け足しである。
中曽根以降の各首相は靖国神社に参拝しなかった。なお、橋本龍太郎首相が11年ぶりに参拝したが、私的参拝であり、中国、韓国から批判されると一度で止めた。
その傾向を覆したのが小泉純一郎である。小泉は2001(平成13)年4月26日に首相に就任した後、8月13日に靖国神社に参拝した。小泉は総裁選の公約に8月15日に靖国神社に参拝すると掲げていたのである。
小泉首相の靖国神社参拝には、当然ながら内外から強い批判が寄せられたが、翌2002年の4月21日、2003年1月14日などと、首相を退くまで毎年靖国神社参拝を繰り返した。
その小泉首相を、私が司会を務めていたテレビ朝日『サンデープロジェクト』に招いて靖国神社参拝について質したことがある。
「私は、戦争の犠牲になった310万人の戦死者の慰霊のために参拝しているのであって、A級戦犯は意識の中にない」
小泉首相は、まずそう語った。そして私が「A級戦犯をどう思うか」と問うと、「A級戦犯はA級戦犯だ。戦争責任者だ」と言い切った。
【突如、中断された「国立施設」案】
その小泉首相の時代、2001(平成13)年12月14日、官房長官をつとめていた福田康夫の諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させている。
座長は経団連名誉会長の今井敬、座長代理は山崎正和(当時東亜大学学長)で、委員は御厨貴、田中明彦など10人であった。
懇談会は2001年12月19日から、だいたい月1回のペースで翌2002年12月24日まで10回行われている。
懇談会の報告書には、「靖国神社は、『国事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため』『創立せられた神社』」とされている。
これに対し、新たな国立の施設は、前述のように死没者全体を範疇とし、この追悼と戦争の惨禍への思いを基礎として日本や世界の平和を祈るものであり、個々の死没者を奉慰(慰霊)・顕彰するための施設ではなく、両者の趣旨、目的は全く異なる」と記している。
懇談会を主宰した福田康夫元首相(当時官房長官)に「記念碑等施設」を設立しようとした趣旨を問うた。
「小泉総理が靖国神社に行かれて、いろいろ問題が起きていて、やはりどこのだれもがわだかまりなく追悼し、平和祈念が行える施設を、国立で、無宗教というかたちでつくろうということで、小泉首相も大変乗り気になられたのです」
そして、福田氏は8月15日に武道館で行われている、全国戦没者慰霊祭を例に出した。こちらは戦死した軍人だけでなく戦死した民間人も含まれていて、首相はもちろん、天皇、皇后も出席されている。
「あれは8月15日の決まった時間だけですが、それを常設で、いつでもだれでも行けるかたちにしようと考えたのです」
福田氏は気負いのない口調で言った。
その施設に、A級戦犯は入るのか、入らないのかと率直に問うた。
「それは離れてもらう、どこのだれもがわだかまりなく行ける施設でなければなりませんからね」
福田氏は、慎重にではあるが、はっきりと言った。当時世論調査もしたところ、賛成55%、反対が35%だったという。
ところが、2002年(平成14)年12月に「意見を取りまとめるのは時期尚早である」として、懇談会は中断され、具体的な計画には踏み込まないで終わっているのである。なぜなのか。
「時期尚早というより、あの時は小泉総理も靖国神社に行かれるので、内外ともに喧噪を極めていて、国民の中にも強い反対があって、もっとみんなの気持が落ち着いたときに具体化すべきだということになったのです」
しかし、その後はどの内閣でも具体化は図られずに現在に至っている。
【「英霊」とは何か】
懇談会の委員の一人である御厨貴氏(当時政策研究大学院大学教授)に「中断」の理由を問うた。
「反対の手紙、そして直接届けに来るものも多かったですね」と話しながら、御厨氏は両手で幅30~40センチの幅を示した。それほど多くの手紙が届いたということだ。
「だから、夜、警官の巡回も増えました。他の委員のところにも来たと思います。内と外側の反対論が非常に激しくて、ああいうかたちでまとめるしかなかったのではないですか」
私は、小泉内閣での試みを評価していたので、「中断」は残念の極みである。そして福田、御厨両氏の説明ではいま一つ合点し切れない。具体的にどのような力が「中断」をやむなくしたのだろうか。『靖国神社』という著書があり、御厨氏とも親しい宗教学者の島田裕巳氏に尋ねた。
「問題が難し過ぎるということではないでしょうか。靖国神社というものの歴史的な重み、複雑さ、それがどんどん増しているということです」
私は島田氏のいうことの意味がわからなくて、黙って話を聞くしかなかった。
「当初は官軍の戦没者を祀っていたのが、日清、日露と対外戦争の戦没者を祀ることになり、戦没者の数が飛躍的に増えた。そして満州事変、日中戦争と、数が増えるだけでなく、英霊という観念が強まった。天皇のために戦い、天皇のために名誉の戦死をした英霊を顕彰する、褒め称えるということです。
ところが、決定的なのは負け戦になってしまったこと、あの戦争は悪い戦争だったということになってしまった。けれど、靖国神社は名誉の戦死を遂げた英霊を顕彰する社です。この複雑さ。遊就館がたびたび批判の対象になりますが、あの戦争はやむを得ない戦いだったと、だから惨めな死に方ではなく、名誉の戦死だったということで遺族たちはほっとするわけです。
しかしこういう問題を、みんなが納得するかたちで議論するというのが、現在では困難すぎる。私は、東京裁判で、A級戦犯の人たちが悪かったということになったのを利用するしかないのではないかと思うのです。それを覆すと、天皇の戦争責任ということも出てくるし……。天皇と首相も靖国神社に行けない。むしろ行かないことに意味がある。そうせざるを得ないのではないですか」
島田氏は続けた。天皇のために名誉の戦死をした英霊たちが、もっとも来て欲しいのは天皇であるはずだが、その天皇は靖国神社に参拝しない。
しかも、天皇の"肉声を記録"した『独白録』によれば、対英米蘭戦争の開始を決した1941年(昭和16年)12月1日の御前会議について、昭和天皇は「閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争が決定した、その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった」と述べている。
そしてこの『独白録』を引用して豊下楢彦前関西学院大学教授は、「つまり昭和天皇は、あの戦争については『反対』であった。自らの『意に反した』戦争であった、と述懐している」(『昭和天皇・マッカーサー会見』)と指摘している。さらに「そもそも『意に反した戦争』に赴いて犠牲になった戦没者たちは、いかなる意味で『英霊』なのであろうか」とも疑問を呈している。
私は豊下氏の指摘は鋭く、的確であると捉えていて、となると「英霊」という言葉、そして靖国神社そのものが矛盾に満ちた存在だということになる。この矛盾こそが、私たち日本人が戦争を考えるバネになる、ということなのだろうか。
〈次回につづく〉
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以上が現時点で出されている田原氏の論評です。
大変長い文章で一読して何が言いたいか分かる方は多くないと思います。
私なりに端的に言えば、事実関係は殆ど間違いなく、淡々と述べられ流石よく纏まっていると感じます。
後半最後メディアお抱えの宗教学者の部分でこの靖国問題を複雑怪奇に、或は理解し辛い、逆に混乱させお茶を濁しているかにも思えました。
ですから結局のところ靖国問題とは解き明かせば解き明かす程、左翼にとって墓穴を掘る結論に近付いてしまうということです。
細かな間違いを指摘しても良いのですが、時間が勿体無いので、彼らメディア寄りのものにとって靖国問題とは東條以外14名に責任を被せ戦後を築いてしまった、自分達の偽善性を暴くことになってしまうのです。
結局のところ靖国問題の行き着くところは二元論であり、それならば大阪市長の橋下氏の方がきちんとまとまってたなと言う感想です。
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