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 藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

鮎は秋を感じて。

2012-09-16 17:38:44 | 社会・経済

005 鮎は秋を感じたのだろうか?。

鮎釣りの釣り人が、下流に集まり始めた。落ち鮎の季節になって来たようである。今日の風は少し過ごしやすい。私の体にも優しく感じる。

昨日までの風とは明らかに違う。

昭和40年頃まで、この川は高瀬舟が使用されていた。この町から北に25kmの加計町まで、水路が開かれていて、太田川の鮎を広島市内の料亭に運んでいたそうである。それが終わると、秋の味覚「マツタケ」を同じように運んだそうだ。

加計町の加計氏は、県北西部きっての名家で、夏目漱石の教え子である。東京を離れる時に、当時の録音機「蝋管」を使って、漱石の声を録音した事でつとに有名である。加計家は自宅の庭から、隣国の島根県まで他人の土地を一度も通らずに行けたそうである。砂鉄タタラで財を成した。その時大量に山を削った土砂が、太田川によって運ばれ広島のデルタ地帯を形成した。

可部を代表する熊谷家の分家は、江の川の源流部で砂鉄の生産を行っていたが、排出する土砂が江の川に堆積し、三次の町に水害を齎すため、浅野藩から創業を止められ、隣県の島根県(松江藩)へ進出し、「可部屋」の屋号を名乗り、砂鉄の生産を行い財を成した。「可部屋」はその財力で、石見銀山の採掘権も手に入れ、江戸時代近隣一番の財力を誇った。

現在の山陰合同銀行を始めとする財閥の始祖である。

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広島の命の源

2012-09-15 14:23:28 | 社会・経済

002田川の本流である。 幽かに見えるのが、太田川橋。 国道54号線に架かる幹線道路の橋である。 嘗ては、片側一車線の橋としては、日本一の交通量を誇った。山陽と山陰を結ぶ動脈。と言うより、山陰の魚介類を広島市場に運ぶ動脈であったが、高速道が取って代わった。 それだけ渋滞がひどいのである。

太田川の本流は、この橋の下流で、二つの支流と合流し広島のデルタ地帯を作ってきた。

一つが旧可部町の東を流れる根の谷川で、この川筋は毛利氏の両川と呼ばれた、吉川氏の勢力地帯であった。現在もその末裔が居られる。 歌手の吉川浩二はその一族である。

いま一つの支流が三篠川であるが、この支流域には、嘗ての毛利氏の宿敵尼子家の一族の末裔が現在も、家名を永らえている。

根の谷川と太田川本流の合流点には、嘗ての国主、武田家の末裔が家名を伝えているし、その一族によって、私立の大学が居を構えている。

居ながらにして、戦国時代を感じる事の出来る町なのである。

私がわび住まいをしている福王寺は、弘法大師によって創建された安芸国の名刹である。

正式には「金亀山 福王寺」と申し、弘法大師製作の一木造の不動明王像が鎮座していたが、落雷によって消失した。

戦国時代には、僧兵3000、末寺132家寺といわれ、西日本有数の勢力を持っていた。今もその面影を残す境内は勇壮である。

因みに広島県の半数の人間が、太田川水系の恩恵で生活している。その為、上流で取水されるため、川幅は五分の一になってしまっている。

嘗ては川幅いっぱいの水が、滔滔と流れていた。

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我が町 旧可部町

2012-09-14 17:34:19 | 社会・経済

001_2 大田川と根の谷川によって潤ってきた町である。嘗てこの町は、天蚕の産地として名をはせてきた。今も旧家の垣根は、棒樫の垣根である。それと共に、砂鉄の集積地として嘗ては、鋳物工場が隆盛を極め、軍需品の運搬の為に、鉄道が引かれた。計画では、軍都広島と山陰を結ぶ予定であったが、終戦と共に計画が中止され、今日では、収益がある可部駅までの区間のみの運行となった。原爆投下時には、この鉄道で大量の被災者が送り込まれてきたようである。

棒樫について少し語っておきたい。嘗て卑弥呼の国の軍隊は、国の出入りの時に、この木の小枝で身を清めたことが、魏志倭人伝に記載されている。この木は、真っ直ぐに伸びる。槍の柄、六尺棒、等 武器に使用されてきた。鍬の柄や、斧の柄等もこの木を使用した。そして何より、山繭の生育に欠かされない木である。この木の葉でしか山繭は育たない。それゆえに古代から神聖な木として大切にされた。榊が登場するまでは、玉ぐしの木は棒樫であり、その後、オガ玉の木に変わり、そして榊に変わった。この変遷が、九州王朝から出雲王朝、大和王朝の変遷を示しているという民俗学者も居るぐらいである。

昭和40年代前半頃まで、山繭の生産が行われていたが、手間が掛かるので、廃れてしまった。又この町の鋳物工場も何時しか寂れてきた。

その町の変わり始めに私はこの町に越してきたのだ。自然豊かな町での子育てを考えての事だったが、十年の内に見事に変貌してしまった。広島市のベットタウンになってしまったのだ。

とはいっても、まだまだ捨てたものではない。

国道から少し山に入ると自然は十分にある。あるから困ることもある。イタチに始まり、ツキノワグマまで何でも団地に出てき始めた。狩猟をする若者が居ないからである。野生動物は、自分達のほうが強いと思っている。先日も小学生が登校中にイノシシに追いかけられた。

区役所に談判に出かけたが、先日申し訳程度に、害獣駆除の猟友会の人を派遣してくれたが、野獣のほうが一枚上手で、手ぶらで下山してきた。おまけの話であるが、同行した猟犬8匹の内、3匹が行方知れずになったそうである。犬もいつもの山とは違う山では迷子になるらしい。

因みに、この町は毛利家の重臣「熊谷」氏の本拠地であった。

あの「敦盛」を討った熊谷氏の末裔の居城の城下町として栄えてきた。

「youtube.vob」をダウンロード

この曲でもお聞きください。

歌っているのは「古賀 久子」 後の「菅原 ツヅ子」の幼きころの歌声です。

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今年は9月22日が秋分の日

2012-09-13 12:13:38 | 社会・経済

9113 左螺山 右水無山

秋分の日は9月20日とばかり思っていた。思いっきり恥をかいてしまった。

なんと116年ぶりの閏の秋分の日だそうである。学生時代にその様な事を教わった事は覚えていたが、生きているうちにその巡り会わせになるとは、思っても見なかった。116歳以上の齢を重ねて方が、国内に幾人おいでになるのか、気になり始めた。

中学生時代、白土三平の漫画に夢中になった。

一つには、彼の書いた「カムイ伝」に引かれ、学校帰りにアルバイトをしていたから私立の授業料を払った残りでこの漫画を読みふけった。「抜け忍カムイ」を取り巻く色々な事件を通して、私に「被差別」の何たるかや、「マタギ」と呼ばれる狩猟中心の存在など色々に、学ぶ所があった。

昭和37年 本屋で一冊の本とであった。「野生への旅 マタギ -狩人の記録ー

十川幸夫」

中学生時代を思い出し、なけなしの金をはたき購入。

民俗学的に素晴らしい本であった。

駆け落ち結婚した時も、この本と吉川栄治全集、井伏鱒二全集はこっそり持って出た。それ程素晴らしい内容の本であるが、その後読むことは無かったが、http://blog.goo.ne.jp/gaginn の「北国から」のブログを読み近年まで、マタギが存在し、又その文化を継承しようとされている方が存在する事に感動して、二日掛かりで読み直した。

内容は、「阿仁マタギ」の歴史と、文化的位置づけを試みた本である。

写真も多く資料的価値も高い。建設中の鉄道や県道の写真も含め記録資料としても一級品である。

おそらく取材地の阿仁地区にもこの本は残されていないのではなかろうか。

因みに「釣りきち三平」の作者矢口高雄氏も、白土三平氏の「カムイ伝」のファンで、「釣りきちがい」の少年の名前を「三平 三平」(みひら さんぺい)としたそうである。

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少し 秋の気配

2012-09-11 18:07:33 | 社会・経済

911

今日の螺山です。その下に、西日本で最初に公共事業で開発された、虹山団地が東(左手に向け)へと伸びている。開発当時は、抽選で当選者のみが入居できた。昭和43年の事である。

若い低所得者でも、取得可能な金額で、370万円平屋付き60坪の建売であった。

当時の入居者は何れも高齢化し、空き家が目立ち始めた。「次世代が帰ってこない」現象が起こっている。空き家が増えると「無用心」である。団地の年寄りは大変だ。義理の兄もこの写真の中に住んでいる。「後期高齢者家族」の典型である。する事がないので「鈴虫」を飼育している。夏休みに「小学校の特別教室」の講師をした。「鈴虫」の飼育を子供達に教えて、鈴虫を分けてやるのである。幾つかの講座の中の一つであったようだ。私の孫は、校長先生の化学実験の講座を選んだが、講師紹介で、義兄が紹介されビックリしたようだ。

幼い頃から可愛がってもらったので、一番好きな叔父さんである。

その義兄の近所も、空き家が点在し、町内として管理に苦慮している。町内会の役員も、高齢者集団で大変である。よそ事ではない。私の住むこの団地も同じ状況である。

買い物弱者、通院弱者、数えればきりがない。解決方法も無い。さてどうしたものであろうか。

こうした、社会弱者を救う「政権党」が何処なのか、未だに見つからない。少なくとも「維新の会」でないことは明らかだ。そもそも社会弱者の存在を、どうも認識していないようだ。「橋下、下暗し。」いやいや「灯台元暗し」でしたね。

昨夜の、石破氏のテレビでの発言は迫力満点でしたね。惜しむらくは、彼が「改憲論者」で、「核武装論者」である所である。今一つ、「自衛隊」という「軍隊」の出身者であることが、どうも喉に骨が引っかかっている様な感じがしてくる。

中国と、韓国は自国の国内の不満を領土問題に振り替えてしのぐ事は、やめる時期に来ている。余り「反日感情」を煽ると、日本の「本格的再軍備」が成され、「核兵器」装備までも、成される危険性が起こる事を、認識すべきである。

9112今将に、「水無山」に 太陽が沈んでいく。 この山に昭和20年8月6日、原爆の資料収集機器を付けた落下傘が、落ちてきた場所である。

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