鮎釣りの釣り人が、下流に集まり始めた。落ち鮎の季節になって来たようである。今日の風は少し過ごしやすい。私の体にも優しく感じる。
昨日までの風とは明らかに違う。
昭和40年頃まで、この川は高瀬舟が使用されていた。この町から北に25kmの加計町まで、水路が開かれていて、太田川の鮎を広島市内の料亭に運んでいたそうである。それが終わると、秋の味覚「マツタケ」を同じように運んだそうだ。
加計町の加計氏は、県北西部きっての名家で、夏目漱石の教え子である。東京を離れる時に、当時の録音機「蝋管」を使って、漱石の声を録音した事でつとに有名である。加計家は自宅の庭から、隣国の島根県まで他人の土地を一度も通らずに行けたそうである。砂鉄タタラで財を成した。その時大量に山を削った土砂が、太田川によって運ばれ広島のデルタ地帯を形成した。
可部を代表する熊谷家の分家は、江の川の源流部で砂鉄の生産を行っていたが、排出する土砂が江の川に堆積し、三次の町に水害を齎すため、浅野藩から創業を止められ、隣県の島根県(松江藩)へ進出し、「可部屋」の屋号を名乗り、砂鉄の生産を行い財を成した。「可部屋」はその財力で、石見銀山の採掘権も手に入れ、江戸時代近隣一番の財力を誇った。
現在の山陰合同銀行を始めとする財閥の始祖である。