気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

レオナルドがミラノに住んでいたころ

2020-05-24 | 旅行記

ロンバルディア地方の朝霧

イタリア、ロンバルディア地方は人口1000万人とイタリア全土の1/6を占め最も多く、最も豊かな地方と言われます。

北にアルプス、その西端から・・・ポー河が山麓・平野を東に流れ、ヴェネツィアのアドリア海に・・・豊かな流域です。


残念なことに最近有名になってしまいました、細菌で、

・・・2月20日 ミラノ北東の某医療機関に中年男性が・・・、医師も予期せぬCOVID-19(Coronavirus Disease 2019)コロナウイルスと診断された。

地球の裏の出来事だったはず、気が付けば院内感染・・・近隣の都市に広がり・・・3月9日イタリア全土に移動制限。

日本と違い仕事、病院、日常生活で外出する際は、行先と理由を明示した自己宣誓書を携帯する事が厳守。

この書式、イタリア日本大使館の記入例を見る限り、本格的な様式です。自己責任の下、以下宣誓する。

身分証明番号、移動の住所〇〇から▽▽まで、審査担当警察官署名まで必要です。

・・・違反にはMax.206ユーロの罰金、・・・出かける意欲が失せるでしょう。

やっと、5月18日外出原則禁止措置が段階的に解除となりました。但し、マスク携行、・・・州外の移動には自己宣誓書が必要なようです。

・・・海外では不思議の国、日本が話題になっているようです。

日本の総理が未知のウイルス来襲に戦争状態と発言したが、全世帯にマスク2枚配布で失笑を買い、いまだに大半未配布。

自主規制の甘い外出禁止だったが、・・・これも段階的に解除される。

日本は良い国なのです。

世襲議員総理ですから、戦争状態とは言ってみたが、専門家のアレモ・コレモ難しいとの声に・・・総意をまとめて最善のお願いを発表するのみだった。

平時では何もしない総理でも問題ないが、危機時にはリーダーの資質・力量が問われます。

日本国民は口先だけのリーダに愛想をつかし、不幸中の幸い、自己管理をした賢明な人々に支えられた結果でしょうね。

米、ロ、中、英に比べれば、お坊ちゃまで裏も無さそう、策士としては下手すぎる、・・・安心はできます。

しかし、市民目線が無い、現場を知らない。被害者は発熱で自宅待機を強制された人々、感染した患者、医療関係者とその家族でしょうか。

ミラノ スフォルツェスコ城、ドゥオーモから北西に7~800m、歩いて5分くらいの所にこの城があります。

このお城にも、かつてお坊ちゃまがおられましたが、実力は発揮できませんでした。

ミラノは地政学的にヨーロッパの重要な位置にあり、ミラノ王国時代は強国に囲まれ、必死な外交を繰り広げたようです。

フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、ヴェネツィア、教皇領、ナポリ、大国が権謀術数繰り広げ・・・複雑怪奇。

・・・フランチェスカ・ロメイ氏の1996/2/1発行 講談社 絵解き美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチを中心に、塩野七生さん「神の代理人」などを参考に考えてみた。

1395年、ロンバルディアなど広大な領地を統合した貴族のヴィスコンティ公が、神聖ローマ皇帝からミラノ公の称号を授かった。

(この時期の神聖ローマ帝国は、武力も権力もなくオーストリア周辺の連合国に対する認証程度でしょうか。)

後年、息子達がヴェネツィアと何度も対立し領土を割譲させられ、1441年には敵の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァが時のミラノ公の一人娘と結婚します。

1450年、ミラノ公亡くなり、後継不在でトラブルがあったが、フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公を名乗り、後に承認される。

城塞の左右に円塔があり、この薬局の様なデザインは、ヴィスコンティ家の紋章で、今日ACミランなどいろんな団体でアレンジして利用されています。

「人を飲み込む蛇」大蛇がサラセン人(イスラム教徒)を退治する、あるいは先祖が森にすむ人食い大蛇を退治した説、など諸説あるようです。

1466年、公国を継承した長男ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、音楽家などを支援するが圧政が続き・・・、

1477年、敵対する貴族3人に教会内で暗殺されます。(神の目前での行為は成功率が高く、結構多いようです)

1477年、7歳で父を亡くしたお坊ちゃま、ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが、ミラノ公を継承するが、母と叔父のルドヴィーコが摂政します。

(ジャン・G・M・スフォルツア(在位1476-1494)  ウィキペディアより) 

王女いや王子です、 髪の毛の描写が・・・、レオナルド・ダ・ヴィンチの作とありますが真意の程は?

1476年、フィレンツェのヴェロッキオの工房は、ヴェネツィア共和国から傭兵隊長バルトロメオの騎馬像の製作依頼を受けます。

当時レオナルドはこの工房を離れて独立していましたが、4mの巨大な騎馬像の制作と聞き助手を買って出ています。

この時期、馬の解剖に熱中し数多くの素描を残しています。

(騎馬像 イラストはセルジオ、アンドレア・リッチャルディ画)

左下は1/2の模型をまず作成、枠木の穴から細木を通し採寸しています、設置場所が屋外の台上となるので、自然光の効果を見るため実物大にトレースした像が造られている。

1478年4月26日、花の大聖堂でミサの最中、パッツイ家の出身ピサ大司教とパッツイ銀行ローマ支店長が、ライバルのメディチ家兄弟を襲った。

ピサ大司教の就任をメディチ家に妨害されて暗殺を・・・刺客は剣の扱いに不慣れで、弟を殺害したが兄ロレンツォは逃げた。

反メディチの教皇は激怒、ナポリ王国と同盟し宣戦布告したが、メディチ家当主ロレンツオは、ナポリ王国に乗り込み・・・ナポリ王と和平を結ぶことができた。

・・・陰謀のパッツイ家当主を始め多くが捕らえられ、処刑、メディチ家の天下となった。

12月にも他国に逃げた者が捕らえられ公開処刑、絞首刑の様子をレオナルドがスケッチしています。

1481年、レオナルドは、サン・ドナート・ア・スコペート修道院から、祭壇画「東方三博士の礼拝」を依頼され、2年半で完成の契約だったが、・・・

(東方三博士の礼拝 ウフィッツィ美術館)

1482年、メディチ家のロレンツォは、ミラノ公国から初代スフォルツァ公(傭兵隊長)の壮大な記念騎馬像を造れる芸術家を派遣する約束をしていた。

(ロレンツォは騎馬像の芸術家となると、ボッティチェッリは画家、レオナルドは音楽奏者以外に騎馬像の経験者だった)

レオナルドは自己紹介で、絵画や彫刻と並んで、力学や水力学、軍事工学の才能を列挙し、絵画や彫刻は誰にも劣らないと述べた。(これは良く知られています)

ミラノ君主ルドヴィコは、自分と対等にふるまう不敵な芸術家に興味を覚え、慢心した狂人か、真の天才か確かめたく彼を呼びにやった。

間もなく30歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ公、ルドヴィーコ・スフォルツァに召し抱えられ、ミラノに居住した。

・・・「東方三博士の礼拝」は途中のまま、・・・依頼主の修道院は、・・・15年待ったが・・・あきらめフィリッピーノ・リッピに注文した。

ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァは実質的な君主で、城塞の再建・拡張にフィラレーテ、ブラマンテと当時偉大な建築家が集まっていた。

古い都市を近代的な都市に、水路網、道路、病院、大聖堂ドーム、レオナルドも参加し、他に軍事機械などの合間に依頼の作品も仕上げています。

(岩窟の聖母 ルーブル美術館) 

無原罪の御宿り同心会がミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂内の礼拝堂祭壇画をレオナルドに依頼した。

完成した祭壇画は、何ヵ所かの修正要求があったようで、この作品はフランス王ルイ12世の手元に渡り、今日ルーブル美術館の所蔵。

10年後に主要部分をレオナルドが描き、一部変更の部分は弟子が描いた作品は、現在ロンドン・ナショナルギャラリーの所蔵。

(白貂を抱く貴婦人  クラクス国立美術館) 

白貂(シロテン)を抱く貴婦人と呼ばれる作品は、ルドヴィーコの愛妾チェチリア・ガレラーニの肖像と言われます。

当時の作品には、通常作品名は付けられていません。結婚のお祝いや、依頼主の肖像画、宗教画など契約者などに納められます。

後年、所有者の手を離れ、財産管理者や絵画ブローカが作品No. 作品名を付けて管理しますので、作品名は時々変わります。

レオナルドの絵の才能は評判になり、ルドヴィーコは絵画は天才と熱烈な信者になります。

人体への好奇心から密かに行っていた人体解剖を、ルドヴィーコは病院内での人体解剖を奨励し、素描から分類研究と関心が移っていきます。

(解剖 イラストはセルジオ、アンドレア・リッチャルディ画)

筋肉、神経組織、血管組織、骨格など多くの素描が残されていますが、後年(1512年頃)再度ミラノで解剖しています。

さて騎馬像の制作は遅れていて、ルドヴィーコはフィレンツェ大使に不満をもらしたとあります。

レオナルドは完全主義者であり、馬だけで6m、全体で9mも超える巨大な騎馬像を相手に何度も構想を変えています。

ついに原寸大の騎馬像の原型を作り上げ、城内の大きな中庭で公開しました。

原型と巨大なブロンズ像を動かすための巨大な機械を考案し、鋳型の覆いも考案、数学者の友人ルカの助けでブロンズ量も計算しました。

1489年、ルドヴィーコはロレンツォに、この像の制作のために鋳造職人二人をミラノに送るよう依頼します。

ルドヴィーコ公は、1483年からミラノ公のお坊ちゃまジャン・G・M・スフォルツァの摂政として権力を握ったが、彼ももう19歳。

一説には、お坊ちゃまが政治に関心を示さないように、宮廷の祭事や音楽に力を入れたとか。

フランスとヴェネツィア共和国の台頭に・・・各国は脅威を感じ、ここから政略結婚、同盟、裏切り・・・混沌としてきます。

ミラノ公、ジャン・G・M・スフォルツァとナポリ王国の長女イザベラ・ダラゴーナ(従妹にあたる)が結婚。

(イザベラ・ダラゴーナ ラファエロ画 by ウィキペディア)

レオナルドはこの結婚の式典のために、天国と軌道を回る7つの惑星を表わした舞台装置を作り上げた。

(ラファエロが1490年頃、ミラノ公妃の肖像画を描いている可能性はあるでしょうね。)

一方、スペイン(カスティーリア王国、アラゴン王国)では長女イサベルが、1490年に隣国ポルトガルの王子と結婚、対フランス同盟です。

1491年1月 ルドヴィーコ(38歳)フェッラーラ公のベアトリーチェ・デステ(15歳)が結婚。

( 「真珠を付けた婦人」ベアトリーチェ・デステ BY ウィキペディア)

長い間レオナルドの作品と伝えられていたが、現在では、ボローニャ派の画家の作品と見なされている。

聡明そうな落ち着いた感じですが、ベアトリーチェ・デステ10代の肖像です。

結婚は二重結婚で、ミラノ公がフェッラーラ公の王女と、フェッラーラ公の王子にはミラノ公の王女(妹アンナ)が嫁ぎました。

この当時ヴェネツィア共和国は、浅瀬から陸に上がってイタリア北部を勢力拡大していました。

アドリア海を拠点とした地中海貿易で、・・・潤っていました。資金は豊富、優秀な傭兵隊長の下、強大な軍事力でした。

1493年8月、北のオーストリア、神聖ローマ帝国でフリードリヒ3世が死去、息子のローマ王マクシミリアンが継承。

慣習とされたので、ローマ皇帝の戴冠にローマ訪問に、・・・ヴェネツィア共和国が阻止したので、ローマ教皇の戴冠を受けず帝位に就任。

軍隊を動かすには軍資金が必要になる・・・神聖ローマ皇帝マクシミリアンは、ミラノ公のもう一人の妹と再婚する。

1493年11月末、ミラノで代理結婚式 マクシミリアン34歳、ビアンカ・マリア・スフォルツァ(21歳)ともに再婚、・・・ウィーンで翌1494年3月結婚。

ミラノ公国は、フランスとヴェネツィアに対抗する準備を着々と進めていた。

・・・紛争は1494年1月25日ナポリ王死去、相続紛争が始まりだった。

そして、フランスのシャルル8世(24歳)ナポリ王位継承を主張して・・・。教皇が認めないとイタリアに攻め込むとやって来た。

・・・ミラノ公のお坊ちゃまは、ナポリ王国の王女と結婚しているのだった。

何故か、叔父のルドヴィーコが、シャルル君、君はナポリに行くべきだ、ミラノの公国内は通行を保証してやると・・・煽ったという説があるようです。

そして、シャルル8世は、1495年ナポリ王国を占領、・・・フランスに逃げ帰り・・・1498年事故死してしまった。

何故か1494年10月22日、25歳で・・・ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ公 亡くなりました。

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