信頼とは、相手に対して自分の期待したとおりの結果が帰ってくることが信じられることである。自分には、どれだけ信頼できる人物がいるであろうか。
幼児期の発達段階には信頼の獲得があり、これに失敗すると他人を信用しなくなるという。今の子供たちを見て思うことは、大人を信用しなくなったように思う。信用したばかりに大変な経験などをしたことがあり、その原因は親や大人が作ったと思っている。
政治家が平気でウソをいう時代だから仕方ないが、他人を信頼する正直者が馬鹿を見ない社会を作りたいものである。噓は泥棒の始まりであるので、このことが学校教育の基本でないかと思っている。
先日、知人にあることを頼まれたが、他のクラスメートに、「彼はウソをいうから、あまり信じない方が良い」と言われたが、その通りであった。“嘘も方便”と言われるが、ウソは出来るだけつかない方が良いと思っている。
学校の子供のイジメにも同じことがいえるが、モンスターピアレントと言われるように、まずは親がウソをつかずに変わる必要がある。昔は、学校の先生やお巡りさんを大切にしていた。今はその逆で、学校の先生になりたいと募集に応募する人が少なくなってきているようである。
もっとも、高校校長だった人が、「教師は、考えが狭くて困る」と言っていたが、当たらずとも遠からずと思っている。なぜなら人間は“せんせい”といわれたら、いつの間にか指導的立場になっているような気になるからで、国会議員を見ているとそんな気がしないでもない。
国会議員が先生と呼ばれる時があるが、本人も偉い人だと思っているのであろうか・・・。もっとも、教師が指導的立場にならないと、子供たちに道徳が育まれないことも確かである。
ところで、ある講演会で教育長を長く勤めた方が、教育には“愛情”が必要だと語っていた。現代人にはこの愛情を感じる感受性が必要であるが、この感受性がいつの間にか無くなってきている。その原因にはいろいろ考えられるが、自己中心的に生きていかなければ損をする現実があることも原因のひとつだと思っている。
「十勝の活性化を考える会」会員