つらねのため息

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松浦周太郎

2015-11-01 16:43:00 | 日本のこと
利尻島に寝熊の岩と呼ばれる自然の岩がある。熊が寝ているように見えるその形から名づけられたものだが、その横に寝熊の岩の石碑があり、松浦周太郎が揮毫したとある。

調べてみると、松浦周太郎は地元(中選挙区時代の北海道2区)選出の衆議院議員で労働大臣や運輸大臣を歴任した自民党三木派の重鎮という。興味をもって伝記の類を探してみたところ、岸本翠月『松浦周太郎伝』(松浦周太郎先生顕彰会、1971年)という本が見つかった。しかし、この本、周りの証言や本人のメモワールを断片的に収集・総合したもので、いくら読んでも断片的にしか経歴がわからない。そこでWikipediaの松浦周太郎の項を参考に、同書で補ってみる。

松浦周太郎 - Wikipedia

松浦周太郎は1896(明治29)年5月2日、現在の北海道八雲町で小作人の子として生まれる。幼い頃に現在の美深町に移住。恩根内小学校を卒業したが、在学中から家業の農作業を手伝い、小学校も一日おきと雨の日に通学するというような状況であったという。卒業後は中学講義録を取り寄せ独学していた。また、一時期胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院していたが、その際隣のベッドにいたのが夏目漱石であった。大正4年、漱石が『道草』を書いていたころという。

この快復の際、救世軍の街頭宣伝によって信仰を得た松浦は1920(大正9)年、洗礼を受けキリスト教に入信。昭和6年には賀川豊彦を招いた講演会なども開催している。

1921年には木材会社を設立し軌道に乗せる。美深町議(1929年)、北海道議(1932年)を経て、1937年立憲民政党から旧北海道2区にて第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選(この時の当選同期に三木武夫がいた)。以後当選12回。民政党では鶴見祐輔の片腕的存在となる。

翼賛選挙で当選したことなどから戦後、公職追放となるが、追放解除後は1952年改進党から中央政界に復帰し、同党副幹事長となる。保守合同後は松村・三木派に所属する。1956年石橋内閣で労働大臣、1964年第3次池田内閣改造内閣で運輸大臣を歴任している。

三木武夫は『松浦周太郎伝』に寄せた「序」のなかで松浦を「政治生活を通じて得たかけがえのない友人」であり「改進党から自由民主党に至るまで苦労を共にしてきた同志中の同志」と紹介している。三木は松浦の「熱心なクリスチャンのプロテスタントの信者として、強い宗教的信念が人生観のバックボーンになっている」とし、その謙虚で誠実な人柄を高く評価し、「日本政治の良心とも称すべき政治家」と呼んでいる。この誠実さは多くの人に評価される松浦の美点だったようで、石橋湛山も同じく同書に寄せた「序」で「私は術策を弄する政治家を嫌う。松浦君は裏も表もない誠意と善意に溢れた政治家である」と述べている。

小学校教育も十分に受けていない人が(松浦自身、衆議院在職25年の表彰を受けた際、「私は、北海道開拓者の子として生まれ、幼時より開拓に従事いたしましたために、小学校も満足に卒業することができなかったのであります」と述べている)、身一つで木材会社を興し、大臣にまで上り詰めるという立志伝中の人物であるともいえる。そうした人物が同時にクリスチャンであり、党内左派と言える三木派の重鎮として活躍していたというあたりに、戦後保守政治の分厚さの一端を見る思いがする。

国民協同党をルーツとする三木派と農村との関係なども含め、いろいろと気になるところである。

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