92年前の今日、1923年9月3日、東京府南葛飾郡亀戸町で、社会主義者が亀戸警察署に捕らえられ、刺殺された亀戸事件が起こった。
亀戸事件 - Wikipedia
この亀戸事件の犠牲者の一人に平澤計七という労働運動家がいた(以下、山本秋『日本生活協同組合運動史』(1982年、日本評論社)184-193頁による)。平澤は明治22(1889)年、新潟県魚沼郡小千谷町の生まれ。日本鉄道大宮工場の職工見習教場に入り鍛冶工となった。当時から文芸的才幹を発揮、小山内薫の門を叩く。後に鉄道院新橋工場を経て浜松工場に移るが、大正5(1916)年、友愛会の活動への参加を志して上京、東京スプリング製作所に就職した。そのころ友愛会の機関誌『労働及産業』の懸賞感想文に入選、友愛会の大島支部、江東支部の組織化に成果を上げ、鈴木文治に認められ本部書記兼出版部員に抜擢された。大正7年10月には渡英する野坂参三の後任として出版部長となる。
大正8(1919)年、友愛会は大日本労働総同盟友愛会と改称したが、平澤は急進化する幹部との間に摩擦を生じ、出版部長を辞任させられ、友愛会での肩書は兼任していた友愛会城東連合会の会長のみになった。そして大正9年、友愛会関東大会で平澤に対する弾劾決議が可決されると、城東連合会員約300名とともに友愛会を脱退、純労働者組合を結成した(純労働者組合の純とはインテリ階級の介入を排除し、純労働者のみによって組織運営する組合の意味)。
この純労働者組合の労働者たちが大正9(1920)年10月、岡本利吉を講師とした労働問題講習会を開き、そこで岡本が話したイギリスのロッチデール公正先駆者組合の話に感銘を受け、同年10月29日に設立されたのが戦前の関東の消費組合(現在の生活協同組合)運動の先駆のひとつとなった「共働社」であった。
いわば平澤は日本の生協運動のパイオニアの一人ということができる。
平澤計七 - Wikipedia
関東大震災が起こると、平澤は純労働者組合と共働社の組合員でのちに長く関東消費組合連盟の有力な指導者になる正岡高一宅が全焼したのを自宅に引き取り、行方不明になった正岡の妹を探して上野から浅草まで歩き回った後、夜警に出てから自宅に帰った。ちょうどそのころに制服巡査が5,6人来て「まことに済まんが、警察まで一寸来て呉れといい、『ハイ』と言いおとなしく出ていきました」といった具合で連行され、その夜虐殺され二度と帰ってこなかった(山本前掲書218-219頁(引用部は亀戸事件建碑実行委員会編『亀戸事件の記録』よりの孫引き))。
※藤田富士男・大和田茂『評伝平澤計七』(1996年、恒文社)をもとに一部補筆。
亀戸事件 - Wikipedia
この亀戸事件の犠牲者の一人に平澤計七という労働運動家がいた(以下、山本秋『日本生活協同組合運動史』(1982年、日本評論社)184-193頁による)。平澤は明治22(1889)年、新潟県魚沼郡小千谷町の生まれ。日本鉄道大宮工場の職工見習教場に入り鍛冶工となった。当時から文芸的才幹を発揮、小山内薫の門を叩く。後に鉄道院新橋工場を経て浜松工場に移るが、大正5(1916)年、友愛会の活動への参加を志して上京、東京スプリング製作所に就職した。そのころ友愛会の機関誌『労働及産業』の懸賞感想文に入選、友愛会の大島支部、江東支部の組織化に成果を上げ、鈴木文治に認められ本部書記兼出版部員に抜擢された。大正7年10月には渡英する野坂参三の後任として出版部長となる。
大正8(1919)年、友愛会は大日本労働総同盟友愛会と改称したが、平澤は急進化する幹部との間に摩擦を生じ、出版部長を辞任させられ、友愛会での肩書は兼任していた友愛会城東連合会の会長のみになった。そして大正9年、友愛会関東大会で平澤に対する弾劾決議が可決されると、城東連合会員約300名とともに友愛会を脱退、純労働者組合を結成した(純労働者組合の純とはインテリ階級の介入を排除し、純労働者のみによって組織運営する組合の意味)。
この純労働者組合の労働者たちが大正9(1920)年10月、岡本利吉を講師とした労働問題講習会を開き、そこで岡本が話したイギリスのロッチデール公正先駆者組合の話に感銘を受け、同年10月29日に設立されたのが戦前の関東の消費組合(現在の生活協同組合)運動の先駆のひとつとなった「共働社」であった。
いわば平澤は日本の生協運動のパイオニアの一人ということができる。
平澤計七 - Wikipedia
関東大震災が起こると、平澤は純労働者組合と共働社の組合員でのちに長く関東消費組合連盟の有力な指導者になる正岡高一宅が全焼したのを自宅に引き取り、行方不明になった正岡の妹を探して上野から浅草まで歩き回った後、夜警に出てから自宅に帰った。ちょうどそのころに制服巡査が5,6人来て「まことに済まんが、警察まで一寸来て呉れといい、『ハイ』と言いおとなしく出ていきました」といった具合で連行され、その夜虐殺され二度と帰ってこなかった(山本前掲書218-219頁(引用部は亀戸事件建碑実行委員会編『亀戸事件の記録』よりの孫引き))。
※藤田富士男・大和田茂『評伝平澤計七』(1996年、恒文社)をもとに一部補筆。
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