このお正月に、写真のくわどり湯ったり村に行った際、「頚城八谷桑取谷」と書かれたのれんが目にとまった(くわどり湯ったり村のサイトでは「七谷」になっていて、これがまた疑問なのだが)。
はて「頚城八谷」あるいは「頚城七谷」とはなんぞやと思い、調べてみた(google検索しただけですが)。
こちらのPDFファイル(国文学研究資料館所蔵の「越後国頸城郡岩手村佐藤家文書目録」なるものの解題らしい)によると
―――以下引用―――
頸城郡の郷の編成は、松平光長時代に小栗美作の改革によって、八谷一〇郷から八谷一五郷に再編されたと言われている。八谷一五郷とは、西浜七谷(川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷)、上郡八ケ郷(大崎郷・上板倉郷・下板倉郷・保倉谷・武士郷・里五十公郷・山五十公郷・松ノ山郷)、下郡八ケ郷(下ノ郷・新田郷・大導郷・高津郷・津有郷・上美守郷・下美守郷・大潅郷)である。
―――引用終わり―――
とされている。
これによれば、「川西谷・根知谷・西海谷・早川谷・能生谷・名立谷・桑取谷・保倉谷」の八つの谷が頚城郡の「八谷」ということになる。
「八谷」が正しいのか、ここからどれかが落ちた「七谷」が正しいのかはわからない。
保倉谷をのぞく谷を「西浜七谷」と呼んでいることから、これとの混同があるのかもしれない(「頚城七谷」という場合はこの「西浜七谷」と同義で使われている可能性もある)。それぞれが現在のどこに比定されるのかは、ぼくが頚城の地理に明るくないので確信をもってはいえないのだが、「保倉谷」が保倉川流域のことだとすれば、その他の谷とは地理的な距離があるので、この可能性が高いとは言えよう。
もし可能であれば、もう少し詳しく調べてみたいところである。
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