戦前の日本の電気事業は自由競争に委ねられ、各地には地域ごとに電灯会社がつくられていったが、東京の江戸川区にもかつて「江戸川電気株式会社」という電力会社が存在した。以下では、メモ代わりに同社についてひとまずわかってきたことをまとめておきたい。
『江戸川区史第三巻』(1976年、江戸川区)によると江戸川電気株式会社は明治44年11月14日創業許可を受けた。一般電灯電力を供給種別とし、小松川村、葛西村、松江村、鹿本村、篠崎村、瑞枝村を供給区域として大正2(1913)年9月21日営業を開始している。資本金は10万円、代表者は千葉胤義、社員20名、事務所を葛西村桑川617番地に置いた。発電機三基で出力は60キロワット、大正4(1915)年末の供給状況は需要家数1968戸、総燭光数17637とある。区史によると江戸川電気株式会社は東京市電気局、日本電燈などと並んで東京電燈と争う気配にあったが、大正6(1917)年1月27日、8万円で東京電燈に買収されたという(同書225頁)。
この記事の参照元は逓信省電気局編纂の第9回『電気事業要覧』となっているが、この『電気事業要覧』をもとに少し補足をすると、大正元(1912)年の第6回『電気事業要覧』では発電出力が75キロワットとなっていて、計画段階から事業開始の間で出力が引き下げられたことがわかる。なお、この発電はガス機関による発電となっている。また、出願や出資人との関係であろうか、事務所所在地が東京市京橋区南紺屋町になっている。
大正5(1916)年の第8回『電気事業要覧』ではガス発電と同時に東京電燈から受電している旨の記載があり、ガス発電については「東京電燈会社より受電工事落成の上には廃止するものとす」となっている。事実、第9回『電気事業要覧』では受電のみしか記載されていない(第6回~第9回『電気事業要覧』、いずれも18-19頁参照)。
東京電力による『関東の電気事業と東京電力:電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』(2002年、東京電力)にもガス機関の発電によって開業したが「その後供給力が東京電灯からの受電に切り替えられたのにともなって、東京電灯との関係も強化された(同書206頁)」という記載がある。
また、『東京電燈株式会社開業五十年史』(東京電燈、1936年)でも、この江戸川電気の買収について触れられている。当時、電気事業者が「陸続と創設された」がその多くは供給区域が重なっていないか、小売事業者と電力の売買契約を結ぶ卸売電気事業者であり、「東京市及び其の附近に於て当社と最も競争の虞あったものは、特に一般電燈電力供給権を有する市電、日本電燈、江戸川電気等の小売事業者であった」。そこで東京電燈は「競争を防止する為、先ず」江戸川電気を買収し、「一部の不安を除去することが出来た」としている(同書114-115頁)。
事業内容はやや不明確だが、大正年間に江戸川電気株式会社が存在し、江戸川区で配電・小売の事業を行っていたことは、以上から確かなもののように考えられる。
それではこの江戸川電気株式会社をつくったのはいったいどのような人たちなのだろうか。まず検討するべきなのは代表となっている千葉胤義であろう。
神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
上記のサイトで「千葉胤義」を検索すると「綱類原料の供給 サイザル麻栽培計画」という記事が出てくる。台湾で麻の栽培をする会社の発起人になっているという記事で、江戸川電気に関わっていることとあわせると、実業家的な人のような印象を持つ。
さらに、インターネットで「千葉胤義」を検索すると1921(大正10)年に杉本商店というところから『佐倉義民木内宗五郎』という本を出していることがわかる。同書は豪華なことに犬養毅と尾崎行雄が題字を書いていて、池田宏という人が序文を書いている。この池田宏は内務官僚で後藤新平に見出された人で、後藤が東京市長になる時に助役になり、東京市政調査会の設立などにかかわったという(池田については、とりあえずwikipedia情報なのでちょっと不確か)。その池田の序文によると千葉は宮城県出身、「夙に志を懐きて海外に遊び」「今や新進気鋭の実業家として立志伝中の一人たり」というようなことが述べられている。その他にも「東京双輪商会」の関係者として紹介している記事もあるようである。
これらがすべて同一人物を指しているのかは不明だが、総合すれば、千葉は実業家的な人物で政界・官界とも何らかのつながりのある人という印象を受ける。しかし、なぜ江戸川の電気会社に関わるようになったのかはいまいちよくわからない。
一方、先ほどの神戸大学の図書館のホームページで「江戸川電気」で検索すると「才賀事件の前途」という記事がヒットする。電気事業のプロモーターとして成功し「電力王」とも呼ばれた才賀藤吉という人物の才賀電機商会という会社がつぶれたという記事なのだが、その関連会社として江戸川電気が出てくる。具体的な関係性が明確ではないが、技術あるいは資本面で、何らかの関係性を持っていたことが窺われる。なお才賀電機商会は、現在の都電荒川線の前身となる軌道事業のほか、現在の東京都北区や埼玉県川口市などで電気事業を行っていた王子電気軌道の設立にも関わっており、才賀藤吉は同社の初代社長となっている。
最後に電気之友社が出していた『電気年鑑』の大正7(1918)年の号に江戸川電気が出ている。ここでは役員の名前がいくつか出ていて、社長の千葉胤義の他に専務に大塚喜一郎、常務に川野濱吉、取締役に町田健、綿貫英隆、主任に石附卯一郎、主任技術者が及川福太郎となっている。社長の千葉は住所が東京市赤坂区青山南町になっているので、やはり江戸川とは関係ない人のようだ。町田、綿貫の両取締役は住所がともに「東京市京橋区彌左工門町4」となっている。2人がそろって同じ番地に住んでいるとは考えにくいので、何らかの資本の関わりなどが想起される。
王子電気軌道 - Wikipedia
なお、上記、Wikipediaの王子電気軌道の項目によると同社は明治44(1911)年に本社事務所を京橋区彌左工門町に移転したとある。明治45(1912)年5月には北豊島郡巣鴨村字巣鴨新田885番地に移転となっているので、大正7(1918)年の『電気年鑑』とは時間的なずれがあるが、この住所の重なりあいは興味深い。町田、綿貫の両取締役は王子電気軌道、ひいては才賀電機商会の関係者だった可能性が考えられるが、他日、より詳細な調査を期したい。
一方、藤田清編『小松川町誌』(1926年、中央自治研究会)によると、常務の川野濱吉は小松川村の村長、荒川放水路設置後の小松川町長を務めた人物であった。何年から村長を務めていたのかは不明だが、町誌には大正3年4月1日の小松川町誕生から大正13年の10月3日まで町長を務めていたとの記述がある(同書113-117頁)。また、川野は大正7(1918)年に設立された小松川信用金庫の初代組合長も務めている。
こましんの歴史(1918~1945)~Komashin History(1918~1945)~
専務の大塚喜一郎についても同様の人物像が浮かび上がってくる。鈴木和明『明解行徳の歴史大事典』(2005年、文芸社)によると市川市の島尻と江戸川区の下今井との間に「当代島の渡し」という小伝馬船を使った渡し船が昭和初期の短期間あり、その経営が大塚喜一郎という人だったという(同書27頁)。また、『江戸川区教育百年史』の資料編第1巻(1980年、江戸川区教育委員会)に「大正2(1913)年に瑞穂実業補習学校・一之江実業補習学校を瑞江第一実業補習学校・瑞江第二実業補習学校と改称した(瑞穂村と一之江村が合併して瑞江村となったため)旨の記事があり、それを提出したのが瑞江村長の大塚喜一郎となっている(同書45頁)。
※大塚喜一郎についてはGoogleブックス検索を利用したので、引用が不正確な可能性がある。
専務・常務の陣容を見る限り、地元の村長を務めている名士が名を連ねており、江戸川電気も地域の人たちが(控え目に言っても)かなり深く関与した、地域の電気会社だったことは言えそうである。千葉や、才賀がそこにどのように関わったのかはまだ不明な部分も多いので今後さらに調査が進めていきたい。
『江戸川区史第三巻』(1976年、江戸川区)によると江戸川電気株式会社は明治44年11月14日創業許可を受けた。一般電灯電力を供給種別とし、小松川村、葛西村、松江村、鹿本村、篠崎村、瑞枝村を供給区域として大正2(1913)年9月21日営業を開始している。資本金は10万円、代表者は千葉胤義、社員20名、事務所を葛西村桑川617番地に置いた。発電機三基で出力は60キロワット、大正4(1915)年末の供給状況は需要家数1968戸、総燭光数17637とある。区史によると江戸川電気株式会社は東京市電気局、日本電燈などと並んで東京電燈と争う気配にあったが、大正6(1917)年1月27日、8万円で東京電燈に買収されたという(同書225頁)。
この記事の参照元は逓信省電気局編纂の第9回『電気事業要覧』となっているが、この『電気事業要覧』をもとに少し補足をすると、大正元(1912)年の第6回『電気事業要覧』では発電出力が75キロワットとなっていて、計画段階から事業開始の間で出力が引き下げられたことがわかる。なお、この発電はガス機関による発電となっている。また、出願や出資人との関係であろうか、事務所所在地が東京市京橋区南紺屋町になっている。
大正5(1916)年の第8回『電気事業要覧』ではガス発電と同時に東京電燈から受電している旨の記載があり、ガス発電については「東京電燈会社より受電工事落成の上には廃止するものとす」となっている。事実、第9回『電気事業要覧』では受電のみしか記載されていない(第6回~第9回『電気事業要覧』、いずれも18-19頁参照)。
東京電力による『関東の電気事業と東京電力:電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』(2002年、東京電力)にもガス機関の発電によって開業したが「その後供給力が東京電灯からの受電に切り替えられたのにともなって、東京電灯との関係も強化された(同書206頁)」という記載がある。
また、『東京電燈株式会社開業五十年史』(東京電燈、1936年)でも、この江戸川電気の買収について触れられている。当時、電気事業者が「陸続と創設された」がその多くは供給区域が重なっていないか、小売事業者と電力の売買契約を結ぶ卸売電気事業者であり、「東京市及び其の附近に於て当社と最も競争の虞あったものは、特に一般電燈電力供給権を有する市電、日本電燈、江戸川電気等の小売事業者であった」。そこで東京電燈は「競争を防止する為、先ず」江戸川電気を買収し、「一部の不安を除去することが出来た」としている(同書114-115頁)。
事業内容はやや不明確だが、大正年間に江戸川電気株式会社が存在し、江戸川区で配電・小売の事業を行っていたことは、以上から確かなもののように考えられる。
それではこの江戸川電気株式会社をつくったのはいったいどのような人たちなのだろうか。まず検討するべきなのは代表となっている千葉胤義であろう。
神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
上記のサイトで「千葉胤義」を検索すると「綱類原料の供給 サイザル麻栽培計画」という記事が出てくる。台湾で麻の栽培をする会社の発起人になっているという記事で、江戸川電気に関わっていることとあわせると、実業家的な人のような印象を持つ。
さらに、インターネットで「千葉胤義」を検索すると1921(大正10)年に杉本商店というところから『佐倉義民木内宗五郎』という本を出していることがわかる。同書は豪華なことに犬養毅と尾崎行雄が題字を書いていて、池田宏という人が序文を書いている。この池田宏は内務官僚で後藤新平に見出された人で、後藤が東京市長になる時に助役になり、東京市政調査会の設立などにかかわったという(池田については、とりあえずwikipedia情報なのでちょっと不確か)。その池田の序文によると千葉は宮城県出身、「夙に志を懐きて海外に遊び」「今や新進気鋭の実業家として立志伝中の一人たり」というようなことが述べられている。その他にも「東京双輪商会」の関係者として紹介している記事もあるようである。
これらがすべて同一人物を指しているのかは不明だが、総合すれば、千葉は実業家的な人物で政界・官界とも何らかのつながりのある人という印象を受ける。しかし、なぜ江戸川の電気会社に関わるようになったのかはいまいちよくわからない。
一方、先ほどの神戸大学の図書館のホームページで「江戸川電気」で検索すると「才賀事件の前途」という記事がヒットする。電気事業のプロモーターとして成功し「電力王」とも呼ばれた才賀藤吉という人物の才賀電機商会という会社がつぶれたという記事なのだが、その関連会社として江戸川電気が出てくる。具体的な関係性が明確ではないが、技術あるいは資本面で、何らかの関係性を持っていたことが窺われる。なお才賀電機商会は、現在の都電荒川線の前身となる軌道事業のほか、現在の東京都北区や埼玉県川口市などで電気事業を行っていた王子電気軌道の設立にも関わっており、才賀藤吉は同社の初代社長となっている。
最後に電気之友社が出していた『電気年鑑』の大正7(1918)年の号に江戸川電気が出ている。ここでは役員の名前がいくつか出ていて、社長の千葉胤義の他に専務に大塚喜一郎、常務に川野濱吉、取締役に町田健、綿貫英隆、主任に石附卯一郎、主任技術者が及川福太郎となっている。社長の千葉は住所が東京市赤坂区青山南町になっているので、やはり江戸川とは関係ない人のようだ。町田、綿貫の両取締役は住所がともに「東京市京橋区彌左工門町4」となっている。2人がそろって同じ番地に住んでいるとは考えにくいので、何らかの資本の関わりなどが想起される。
王子電気軌道 - Wikipedia
なお、上記、Wikipediaの王子電気軌道の項目によると同社は明治44(1911)年に本社事務所を京橋区彌左工門町に移転したとある。明治45(1912)年5月には北豊島郡巣鴨村字巣鴨新田885番地に移転となっているので、大正7(1918)年の『電気年鑑』とは時間的なずれがあるが、この住所の重なりあいは興味深い。町田、綿貫の両取締役は王子電気軌道、ひいては才賀電機商会の関係者だった可能性が考えられるが、他日、より詳細な調査を期したい。
一方、藤田清編『小松川町誌』(1926年、中央自治研究会)によると、常務の川野濱吉は小松川村の村長、荒川放水路設置後の小松川町長を務めた人物であった。何年から村長を務めていたのかは不明だが、町誌には大正3年4月1日の小松川町誕生から大正13年の10月3日まで町長を務めていたとの記述がある(同書113-117頁)。また、川野は大正7(1918)年に設立された小松川信用金庫の初代組合長も務めている。
こましんの歴史(1918~1945)~Komashin History(1918~1945)~
専務の大塚喜一郎についても同様の人物像が浮かび上がってくる。鈴木和明『明解行徳の歴史大事典』(2005年、文芸社)によると市川市の島尻と江戸川区の下今井との間に「当代島の渡し」という小伝馬船を使った渡し船が昭和初期の短期間あり、その経営が大塚喜一郎という人だったという(同書27頁)。また、『江戸川区教育百年史』の資料編第1巻(1980年、江戸川区教育委員会)に「大正2(1913)年に瑞穂実業補習学校・一之江実業補習学校を瑞江第一実業補習学校・瑞江第二実業補習学校と改称した(瑞穂村と一之江村が合併して瑞江村となったため)旨の記事があり、それを提出したのが瑞江村長の大塚喜一郎となっている(同書45頁)。
※大塚喜一郎についてはGoogleブックス検索を利用したので、引用が不正確な可能性がある。
専務・常務の陣容を見る限り、地元の村長を務めている名士が名を連ねており、江戸川電気も地域の人たちが(控え目に言っても)かなり深く関与した、地域の電気会社だったことは言えそうである。千葉や、才賀がそこにどのように関わったのかはまだ不明な部分も多いので今後さらに調査が進めていきたい。
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