鶴見太郎『橋浦泰雄伝』(晶文社 、2000年)を読んだ。
戦前、中野から杉並にかけての中央線沿線に西郊共働社という今でいう生協のような組合があった。この組合は当時出現しつつあった主婦層を家庭会として組織化し、講習会やピクニックなど活発な文化活動を展開したことで有名だ。組合員には、与謝野晶子、奥むめお、大宅壮一、中条百合子など文化人が顔を揃えていたことでも注目される。戦時中は活動を停止したが、戦後いち早く活動を再開し、そのなかでいち早く「生活協同組合」という名称を使ったのがこのグループであった。
橋浦泰雄(1888~1979年)はこの西郊共働社から始まる一連の活動のリーダー的な役割を担った一人である。最近、「生活協同組合」という言葉を発案したのはこの橋浦であるという文献を見つけたので、ふとどんな人が「生協」の名付け親になったのか知りたくなり本書を手に取った。
本書を一読して驚いたのはその多彩な活動とそれらの有機的な連関である。いうまでもなくコミュニストであり、社会活動家であった橋浦だが、同時に有島武郎と文学を語りあう仲であり、画家であり、ナップ(全日本無産者芸術連盟)の委員長でもあった。また柳田國男の門を叩き、全国を調査して回った民俗学者としての顔ももち、その全国的な組織化に大きく寄与したという。そしてこれらの多様な活動が橋浦の中では棲み分けられ、多彩な人脈と活動が一人の人間の中に同居しつながっていることはとても興味深い。この時代の共産主義活動家の多くが、生家やその周辺と疎遠になっていったのに対し、鳥取県岩美郡の生まれの橋浦は、生家や郷里と常に良い関係を築いていたという点も橋浦の人間性を物語る。
このような人物であればこそ、消費組合運動においてもリーダー的な活動ができたのだろうし、何より、民俗学の調査を通じて養われた人々の「生活」への視座が「生活協同組合」という言葉の発案につながったであろうことは想像に難くなく、そこに込められた意味を改めて考えてしまう。
現代から見た時、その足跡をたどることの意義がどれほどあるかはわからない。しかし、私たちの暮らしがこういう人たちの活動によってつくりあげられてきた歴史の上に成り立っているものであることを知ることはとても意味があることのように思う。
鶴見太郎『橋浦泰雄伝――柳田学の大いなる伴走者』(晶文社、2000年)
戦前、中野から杉並にかけての中央線沿線に西郊共働社という今でいう生協のような組合があった。この組合は当時出現しつつあった主婦層を家庭会として組織化し、講習会やピクニックなど活発な文化活動を展開したことで有名だ。組合員には、与謝野晶子、奥むめお、大宅壮一、中条百合子など文化人が顔を揃えていたことでも注目される。戦時中は活動を停止したが、戦後いち早く活動を再開し、そのなかでいち早く「生活協同組合」という名称を使ったのがこのグループであった。
橋浦泰雄(1888~1979年)はこの西郊共働社から始まる一連の活動のリーダー的な役割を担った一人である。最近、「生活協同組合」という言葉を発案したのはこの橋浦であるという文献を見つけたので、ふとどんな人が「生協」の名付け親になったのか知りたくなり本書を手に取った。
本書を一読して驚いたのはその多彩な活動とそれらの有機的な連関である。いうまでもなくコミュニストであり、社会活動家であった橋浦だが、同時に有島武郎と文学を語りあう仲であり、画家であり、ナップ(全日本無産者芸術連盟)の委員長でもあった。また柳田國男の門を叩き、全国を調査して回った民俗学者としての顔ももち、その全国的な組織化に大きく寄与したという。そしてこれらの多様な活動が橋浦の中では棲み分けられ、多彩な人脈と活動が一人の人間の中に同居しつながっていることはとても興味深い。この時代の共産主義活動家の多くが、生家やその周辺と疎遠になっていったのに対し、鳥取県岩美郡の生まれの橋浦は、生家や郷里と常に良い関係を築いていたという点も橋浦の人間性を物語る。
このような人物であればこそ、消費組合運動においてもリーダー的な活動ができたのだろうし、何より、民俗学の調査を通じて養われた人々の「生活」への視座が「生活協同組合」という言葉の発案につながったであろうことは想像に難くなく、そこに込められた意味を改めて考えてしまう。
現代から見た時、その足跡をたどることの意義がどれほどあるかはわからない。しかし、私たちの暮らしがこういう人たちの活動によってつくりあげられてきた歴史の上に成り立っているものであることを知ることはとても意味があることのように思う。
鶴見太郎『橋浦泰雄伝――柳田学の大いなる伴走者』(晶文社、2000年)
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