えびす顔の造花卸売問屋元社長からの手紙

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ポストコロニアルと在日文学

2011年03月03日 17時35分46秒 | コリア
 先日、ニッポン猪飼野ものがたり(猪飼野の歴史と文化を考える会編)の出版を記念した講演会に行ってきました。その中で『先代』の「猪飼野物語」の著者元秀一さんがしゃべられたお話が表題の「ポストコロニアルと在日文学」です。

 テンポ良く分かりやすい元さんの小説とは裏腹に、私には少々難しかった。分からなかった部分も勝手に解釈して要約してみると。

 コロニアルとは植民地のこと。朝鮮半島が日本の植民地であったころの在日文学をよく表しているのが「朝鮮人は朝鮮人であることを忘れねばならない。血と肉と骨がすっかり日本人になってしまわねばならない。」の文章。

 ポストコロニアルは植民地時代が終わったあとのこと。そこではコロニアル的な要素例えば「出自を明かさない」などを引きずりながらも多様な文学が現われてくる。

 1、負の位置に置かれた在日を暗たんたる表現で描く文学
 2、在日一世でありながら生前、「韓国人の血が三分の一混じっている」と告白していた立原正秋が描くのは、川端康成の伊豆の踊り子を彷彿させる抒情的な小説。それこそ「日本人になってしまわなければならない」を地で行くように、そこには韓国・朝鮮を微塵も感じさせない。その立原も遺作では朝鮮半島をテーマにした。
 3、日韓の言語や文化がクレオール(混交)した作品群。猪飼野のオモニを大阪弁、済州島なまりの韓国語チャンポンで描く元さんの小説はこれに属する。

 元さんは自身の小説について、「貧しく差別されてきた在日だけれど、その暗たんたる中に実はオモニたちは力強くしたたかに、そして明るく生きてきていた。そんな姿を描きたかった」と。

 コロニアルからポストコロニアルへと進んでいった在日文学。この先はどのような展開を見せるのでしょうか。逆説的に言えば、それは文学の世界に留まらず私たちの日常にも深く関わってくることでしょう。

 写真は元秀一さんの講演風景。高仁鳳さんのホームページ「鳳bongのpage」から借用しました。

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