こんにちは
3月の飛鳥史学文学講座は、奈良・明日香村教委文化財課の西光慎治さんが飛鳥時代の王墓について話しました。以下はそのお話とそのあとネットで調べたことをもとに、私なりに解釈したお話です。文責は司元です。
人は死ぬと、霊魂と肉体にになる。その霊魂も死ぬと天上に昇る「魂」と肉体とともに地中に入る「魄 (はく)」に分かれる。お墓は肉体を土中に埋めることで、肉体と魄 が地中に入り、昇天する魂と分離する。古墳は高塚を築いてその肉体を地上より上に葬る。すると魄も地中に帰らず、魂・魄と肉体が融合する。そして死んでも社会の構成員として存在し続ける。
飛鳥時代は古墳の終末期で、持統天皇は火葬されて夫天武天皇の陵墓に合葬された。持統天皇の孫の文武天皇も中尾山古墳に火葬されて埋葬されている。高塚(古墳)を築いて埋葬するのは「魂・魄と肉体を融合させる」ため。なのに火葬し肉体を無くしてしまうと融合できない。土葬でなく火葬しての高塚(古墳)への埋葬は理屈が合わない。それが、飛鳥時代の終末期古墳に現れた。
魂・魄と肉体が融合する高塚(古墳)では、埋葬するまで殯(もがり)が長期間にわたって行われた。死体が腐敗し白骨化するまで殯が続くこともあった。死臭を抑えるために漆塗りのお棺が使われた。殯期間は通夜を毎日続けるようなもので、周りの負担が大きい。しかし火葬にするとその殯期間が短くなる。持統天皇や文武天皇は古墳に埋葬されながらも、殯期間の短い火葬だった。
古墳時代が終わると天皇の多くが火葬され、小規模な墓に葬られるようになる。江戸時代初期から再び土葬になったが墓は小いさなまま。実際、少し大きめのお墓程度。下の写真は京都・泉涌寺内の月輪陵の航空写真(Googleマップから)。が葬られている25人の天皇、お一人お一人のお墓の様子、大きさが分かる。
一方、宮内庁ホームページでは、一つ一つの陵墓を掲載するのではなく、月輪陵の正面写真のみを掲載。この門と塀の中に25陵あるが、個々のお墓の大きさは分からない。
明治維新を経て尊王思想のもと、天皇陵は墓から終末期古墳同様な大型の墳墓に戻る。明治、大正、昭和天皇(写真下)と上円下方墳 が続く。
平成天皇は自らの意志により火葬に決まった。陵墓も前三代の天皇よりは小規模になる予定だが、それでも江戸期以前に比べては相当大きい。
今の国民主権、民主主義の時代に、「大王」がいた飛鳥時代の終末期古墳に戻るかのような大陵墓。おかしい。
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