愛読書の「ダカーポ」に(とはいっても図書館で読んでますが)
死生観についての特集があり、様々な著名人がそれについて語っていました。
その中で蛭子さんは自分と似た死生観をしていました。
「死んだら一切無になる」(輪廻転生や天国に行ったりすることは無く
文字通り何もなくなるという意味)「お葬式はしなくていい」「お墓もいらない」
「自然葬(遺灰を散骨すること)にして欲しい」と、共通点が非常に多かったです。
お葬式については昔からお通夜の後のお清めが嫌いで、どうしてあそこで飲み食いするのが
故人を偲ぶことになるのか未だに理解できません。
死んだら何もなくなるという考えなのでお墓も要らないし、どこか暖かい土地に散骨してもらいたいです。
うちの親もそういう考えの人なら親戚がいくら反対しようと、散骨でも何でもするつもりですが
たぶん常識的な考え方をするだろうからごく一般のそれになるとは思ってます。
しかし自分の考えには矛盾があります。
もし自分が死んだとして何も無くなるんだったら
その後どんな葬式をしようがかまわないではないか、
ということでまったくもってそのとおりだと思います。
死んだら知りようがないんですから・・・
そういった意味でもお葬式って死者のためのものではなくて、
生者のためのものということだけはいえるでしょうね。
死生観についての特集があり、様々な著名人がそれについて語っていました。
その中で蛭子さんは自分と似た死生観をしていました。
「死んだら一切無になる」(輪廻転生や天国に行ったりすることは無く
文字通り何もなくなるという意味)「お葬式はしなくていい」「お墓もいらない」
「自然葬(遺灰を散骨すること)にして欲しい」と、共通点が非常に多かったです。
お葬式については昔からお通夜の後のお清めが嫌いで、どうしてあそこで飲み食いするのが
故人を偲ぶことになるのか未だに理解できません。
死んだら何もなくなるという考えなのでお墓も要らないし、どこか暖かい土地に散骨してもらいたいです。
うちの親もそういう考えの人なら親戚がいくら反対しようと、散骨でも何でもするつもりですが
たぶん常識的な考え方をするだろうからごく一般のそれになるとは思ってます。
しかし自分の考えには矛盾があります。
もし自分が死んだとして何も無くなるんだったら
その後どんな葬式をしようがかまわないではないか、
ということでまったくもってそのとおりだと思います。
死んだら知りようがないんですから・・・
そういった意味でもお葬式って死者のためのものではなくて、
生者のためのものということだけはいえるでしょうね。