理論と論理は同じようなことだと思っていた。
漢字の組み合わせが逆になっているだけである。しかし、意味が違うのである。理論は「原理や原則から出発して論じること、論じたもの」とあり、論理とは「ある事実から、当然、次の事実が言えるという、話のすじみち」とある。まずは出発点が違う。前者は原理・原則であり、後者は事実である。そして出来上がったものは前者は論じること、論じたものであり、後者は話のすじみちである。理の論と論の理の違いである。理について論じるのか、論について理を確かめるのかの違いのようだ。
理論は、
普遍的かつ体系的な説明、概念、知識の総体であり、すでに証明されている事象に基づいて現実の個々の現象にも適応し得ると論ずることであり、理論そのものはすでに証明され、普遍的かつ体系的に整えられたものであろう。理論そのものは間違いであってはならないのである。過去に間違った理論は多数存在しただろうが、間違いが証明される前は正しいと思い込んで「理論」として扱われていたことになる。間違いと証明された事実が正しければ以前の理論は当然消滅する。
論理は、
現象を合理的・統一的に理解するための因果関係であり、与えられた条件から正しい結論を得るための考え方の筋道であり、論理は関係性であり、ある事実から次の事実が言えるという筋道のことである。論理そのものは証明されていない事実に対してある事実から推定した推論の正当性を理をもって筋道立てて論ずることであろう。論理はあくまで考え方の筋道であって、事実と事実の関連性を明らかにする検証でもある。論理は筋道が間違っていれば成り立たない。
AだからBであると簡単にしてみると、
理論はAは原理・原則であり、Bは実在する事実となり、理論から導き出された現実の事象を証明している。もし現実の事象Bが確かに原理・原則に合致していればBも原理・原則となり得る。論理はAもBも事実であり、二つの事実の関係性を理(原理・原則)を用いて論じた結論であり、重視されるのは考え方、筋道である。考え方・筋道が正しければ、AとBの関係性が証明される。ただし、たぶん、理論も論理も必要条件ではあるが、必要十分条件とならないまま思考が展開していくようだ。
必要十分条件のみを強要すれば理論や論理の展開は制限的になる。
ある程度不確定なものを立証してゆくのが議論である。すでに確実なものとして立証されているものには議論の余地はない。そうやって新しいものを発展・開発してゆくのだろう。AIが発展してゆくと、この不確実なものをどのように処理してゆくかが問題となると思う。人間はこの不確実な部分が個性となり多様性となり、その人間同士がお互いに議論を重ねて結論を導いてゆく。しかし、結論は永久に不確実なままで、永久に議論されるものでもある。
果たしてAIにこんなことができるのだろうか?
AIが問題なのは、統一的・一元的に物事を扱うことである。多様性を持ったAI同士が相互にコミュニケーションをとって一つの結論を導くことはない。AIが出した結論はひとつであり、何故そうなったのかは、再度つぶさに点検・確認しなければならない。AIが膨大になればなるほどその検証は困難になって、最終的には不可能になって行く。その結論が正しいのかどうかは、再度人間の多様性で検討しなおさなければならないのではないだろうか?
理論に基づいて論理を展開し、新たな理論を確立してゆく。
AIは不確実な理論を仮の結論として提供する道具に過ぎない。どのような論理を展開した結果なのかの検証が重要になってくると思う。AIの出した結論を既証明事象として扱うのか、未証明事象として扱うのかで大きく考え方は変わってくる。当然私は、未証明事象として扱うべきだと思っているが、多くの人達は既証明事象として信じて疑わない人達が多いのには大いに警鐘を鳴らすものである。コンピュータ誕生の頃のコンピュータを神とあがめてその結論を妄信し信じて疑わなかった時代のあったことを反省し再考を促すものである。
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