今日は一日で、劉備の実質勝利デビュー戦の地(赤壁の戦い208年)と、ここ最後の大敗北の地(夷陵の戦い222年)を巡ってきた。(赤壁市と宜昌市間は270kmで4時間のバス移動)
劉備玄徳は、夷陵の戦いで呉の陸遜に敗れた後、翌年(223年)に敗走先の白帝城で没した(享年62歳)。
この間の経緯は、横山光輝三国志(全60巻)では第43巻~45巻で知ることができる「ちなみに第46巻以降はおもに諸葛亮孔明を中心に展開していて、46巻~49巻は南蛮行(七度放つ孟獲との闘い)、第49巻~59巻は魏への北伐(第52巻から司馬懿仲達参戦)、最終第60巻は蜀の滅亡です」。
それにしても、この場所は長江の崖にへばりついた古桟道の雰囲気も良く、こんな場所が戦場だったの?と疑問の沸く絶景の地でした。
大いに期待してこの場所までやってきました。
高さ6mもある周瑜大提督(赤壁の戦いの翌年35歳で没)の石像の裏の崖に「赤壁摩崖石刻」があるのですが、残念ながら長江の水位が上がっていて、石刻は水没し、それを見学できる遊歩道も水没で立ち入り禁止状態でした。
やむなく周瑜の指揮所跡の「翼江亭」周辺をブラブラしつつ、こちら岸から烏林を(東南から西北方面を)望んで、今から1800年も前(日本では卑弥呼の時代)の当時の船団配置や戦闘の様々を想像してみました。
吉川英治の三国志では、様々な場面を自分流に想像しつつページをめくっていくのですが、横山光輝のまんが三国志(全60巻)では、想像なしで読み進めます(赤壁場面は第24~26巻)。
彫塑園~拝風台~周瑜像前~入場口まで電動カートを利用(20元)。
赤壁大戦のキーポイントになった東南(たつみ)の風を呼び込むために、孔明が祭壇を設置して祈祷所にした小山(南屏山頂)。
その跡には武候宮と言う建物が作られており、最初の部屋には孔明の事蹟文とレリーフがあり、さらに奥には、伝説の聖天子(禹、尭、舜)と共に、オチャメな作り(いっこく堂の人形風)の孔明、劉備、張飛、関羽(ハイタッチポーズ)の像が祀られていた。
館内には、曹操、劉備、孫権、孔明、小喬(コケティッシュ?)、周瑜、関羽、張飛、趙雲、陸遜、黄蓋など、埃をかぶっているものの表現豊かな塑像が10体ほど並んでいる。
孔明考案の連続弩や発掘品、大戦時の兵船の種類模型の展示観覧と、ホールでは舞踊と小芝居(周瑜に言われた孔明が3日で10万本の矢を確保するエピソード)を鑑賞した。
「連環の計」で歴史に名を遺した「龐統」出仕前の住まい(内部にはつぶらな瞳の龐統像が祀ってある)。
周りには、東屋での読書、周瑜と魯粛に火計を進言する場面の塑像が建っている。
出仕前には、伏龍(孔明)か鳳雛(龐統)かと並び称される才能の持ち主と評価されていたが、孫権の臣下になった時も、劉備に鞍替えした後も、特段の功少なく、若くして戦死(214年四川省落鳳坡にて36歳)した。