乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

2024-09-30 | クラッシック音楽

ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10 /ヤクブ・フルシャ/ 東京都交響楽団

 

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

 

ブラームスとの出会い

 1874年7月にドヴォルザークは交響曲第3番、第4番他数曲を、新たに設けられたオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出した。

 そして、1875年2月この奨学金が与えられることになったが、その金額(400グルデン)は当時の彼の年収(126グルデン)の2倍以上にあたる高額なものであった。

 この奨学金は年ごとに審査を受けるのであるが、ドヴォルザークは結局、5年間これを受け取っている。

 

 1876年ドヴォルザークは、弦楽五重奏曲ト長調 (Op.77, B.49) で芸術家協会芸術家賞を獲得する。

 1875年から1877年にかけて、プラハの豪商ヤン・ネフの依頼で作曲されたのが全22曲の『モラヴィア二重唱曲集(英語版)』で、「ベルリン国民新聞」はこれを「美しい乙女たちが露のきらめく良い香りの花を投げ交わしている」と激賞した。

 

 ドヴォルザークは1877年に奨学金審査のためにこの作品を提出した。

 審査員を務めていたブラームスはこの曲に目をとめ、懇意にしていた出版社、ジムロックに紹介した。

 

 ブラームスは紹介状に

「この二重唱曲がすばらしい作品であることはあなたの目にも明らかでしょう。しかもそれらは優れた作品なのです」

と書き送っている。

 

 個人的にも、1878年、ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、翌1879年にはブラームスがプラハのドヴォルザークの許を訪ねるという具合に親しい交際が始まった。  

 

 

 このように音楽家としての栄光に踏み出したドヴォルザークだが、その家庭は不幸に襲われた。

 1877年8月に次女ルジェナが、翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去ったのである。

 彼らの冥福を祈り作曲されたのが、ドヴォルザークの宗教作品の傑作『スターバト・マーテル』であった。  

 

『モラヴィア二重唱曲集』の出版で成功を得たジムロックは、1878年にドヴォルザークに対して、ブラームスのピアノ連弾のための『ハンガリー舞曲集』に匹敵するような『スラヴ舞曲集』の作曲を依頼した。

 

 この依頼に応えて作曲された作品集は、「神々しい、この世ならぬ自然らしさ」(ベルリン国民新聞)との絶賛を受け、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に広く知れわたった。

 

 このころのドヴォルザークはリストの『ハンガリー狂詩曲』をモデルにそのチェコ版を目指しており、チェコの舞曲や民族色を前面に押し出した作品を多く作曲する。

 

 また、この傾向は、そうした作品を期待する出版者や作曲依頼者の意向に沿ったものでもあった。

 

 たとえば、フィレンツェ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリニスト、ジャン・ベッカーは「新しいスラヴ的な四重奏曲」を依頼し、ドヴォルザークはこれに応えてチェコの民族舞曲や、ウクライナ民謡「ドゥムカ」の形式を採り入れた弦楽四重奏曲第10番(1879年)を作曲している。

 また、『チェコ組曲』も同年の作品である。  

 

 一方、ジムロックはドヴォルザークに、管弦楽曲のピアノ編曲版を要求する。

 こうした細々とした委嘱作品や編曲に追われながらも、ドヴォルザークは1879年にヴァイオリン協奏曲の第1稿を書き上げてヨーゼフ・ヨアヒムの元に送り、1880年にこれを改訂、さらに1882年に再び筆を加えてこれを完成させている。

 

 有名な『我が母の教えたまいし歌』を含む歌曲集『ジプシーの歌』(1880年)が書き上げられたのもこの時期である。

 そして、1880年に作曲された最も重要な作品は、ドヴォルザークのスラヴ時代の精華とも言うべき交響曲第6番ニ長調である。

 ハンス・リヒターに献呈された。

 1883年、古いフス派の聖歌を主題とする劇的序曲『フス教徒』が書かれた。

 これに対して音楽評論家ホノルカは「敬虔なカトリック教徒のドヴォルザークが異端のフス派を描くとは」とこの作品に注目している。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

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Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

2024-09-30 | クラッシック音楽

Dvořák: Symphony №9, "From The New World" - II - Largo

 

 

ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」 ~ Antonín Dvořák : Symphony No.9 in E minor, "From the New World", Op.95 ~

 

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

 

学習期

 1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、ズロニツェに移って飲食店を始めた。

 翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェ(ドイツ語版)という町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになった。

 

 ところが、実家の経済状況が悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となったため、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとした。

 これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学した。

 

 経済的には苦しい学生生活であったが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業した。

 この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というものであった。

 

 ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、彼は後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかった。

 

 

 

青年期

 卒業後は、カレル・コムザーク1世(ドイツ語版)の楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行っていたが、1862年チェコ人による国民劇場建設が具体的に決まり、完成までの間、仮劇場を設けることになっていた。

 

 ドヴォルザークは、その仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となった。

 

 1866年、このオーケストラの指揮者としてベドルジハ・スメタナが迎えられ、その教えを直接受ける機会を得た。

 

  一方、1865年からは仕事の合間に金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となった。

 女優でもあった姉ヨゼフィーナに恋心を抱くも失恋し、この時の想いが歌曲集『糸杉』をはじめ、様々な作品に昇華されることとなる。  

 

 創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようであるが、多くは破棄されてしまった。

 

 

 コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことである。

 しかし、この交響曲は生前演奏されることはなかった(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。

 

 1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げるが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れている。

 

 同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえる。

 

 さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き(チェコ語版)』(第1作)が作曲されている。

 

 スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評したが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言した。

 その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなった。  

 

 ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』であった。

 

 1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演された。

 

 民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。

 

 この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚した。

 

 1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任した。

 この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができた。

 そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラ(各曲が独立して番号が振られたオペラで、ワーグナーの手法とは完全に逆行する)として完成させた。

 

 1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊った。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていった。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

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新歌舞伎『あらしのよるに』  2.0★/5    発刊30周年記念  中村 獅童  きむらゆういち 原作(講談社刊) 今井豊茂 脚本  藤間勘十郎 演出・振付 

2024-09-29 | 歌舞伎

 

新歌舞伎『あらしのよるに』   2.0★/5   発刊30周年記念  中村 童  きむらゆういち 原作(講談社刊) 今井豊茂 脚本  藤間勘十郎 演出・振付 

 

 新歌舞伎『あらしのよるに』を観た。

 おそらく、自宅で動画を見ていた分には、小半時間で見ることを断念したであろうと思われる舞台であったことを始めに記しておきたい。

 

 役者が誰かが分からないような厚化粧の本舞台であったが、中でも個性的な顔である中村 童と、二枚目差を隠せないほどの個性的な河原崎 権十郎だけは、出てきた瞬間で誰かが解る。

 

 また、良い意味で独特の声と言い回しの市村 萬次郎は、人声聞いただけで誰かが解る。

 付け加えておくならば、私は毎度歌舞伎鑑賞の際には、出演者のチェックなどは入念さに欠けるのだが、そんな中でさえ、上の三人は、即座に分かった。

 

 また、脚本に多少の強引さが見られるが、そんな台詞でさえ中村 壱太郎は歌舞伎にしていた。

 歌舞伎らしく感じられたのは、市村 萬次郎、中村 壱太郎、河原崎権十郎、坂東 新悟など。

 新歌舞伎と雖も、歌舞伎の基本から大きく逸脱した言い回しは、私としては感心しない。

 

 舞台全体は、歌舞伎のだいご味ともいえる場面が多く散らばしてあり、1970年代の猿之助劇団のスーパー歌舞伎の小型版を思い浮かべた。

 当時の猿之助劇団起用の 京劇とまではいかないが、とにかくアクロバットのように、くるくるバク転で舞っておられた。

 全体を通して、振り付けは良かったように感じる。

 

 会場中は大興奮で、ことあるごとに手拍子爆発。

 こういった芝居も、時の流れか、、、とほくそえむ。

 

 上にも書いたが、絵本がベースとなっているため、歌舞伎本来の江草などがない。

 全体を通して、【人情物】に加えてのこのようにに成り下がっていた・

 私は歌舞伎で、このように【教訓】を前に出す重厚さに欠ける話があまり好きではない。

 説経くさく、くどい。

 歌舞伎で【教訓】は、ひらひらと薄過ぎる、、、と感じたのは、私だけか。

 

 そんな中でも、上にも書いた通り、うまい役者がいて、歌舞伎を逸脱しなかった。

 さぞや、やりにくい舞台であろうと察したが役者もしょせん、お金儲け。

 やらざるを得ないのであろうと感じた。

 

 会場を見渡すと、いつもとは違うおしゃれ度の観客が多く、また子連れも多い。

 上演中はあちらでもこちらでも、大きな声で親子で話している。

 せっかくこのような経験をさせてあげていらっしゃるなら、ついでの観劇マナーもお教えになられればいいのだが、親御様が率先して話されていらっしゃった。

 会場スタッフも注意といった配慮はない。

 芝居を観たい観客は大声の雑談を、あきらめる以外にはなかった。

 

 感心したのは、狼六法。

 あれを狼六法とよんで良いのかどうかはわからないが、狼が振る六法を始めて見たので、興奮した。

 ただし、この六法を振っているときも、会場中が爆発の手拍子。

 歌舞伎の六法で手拍子はいささかなじみのない風景だが、観客は大変盛り上がっていたのであろうと、ほくそ笑む。

 

 全体の感想は 2.0★/5と、低め。

 上にも書いたが自宅で動画なら、小半時間で見ることを断念した舞台であった。

 

 

  がぶ
めい
みい姫
はく
穴熊ぴか
たぷ
山羊のおじじ
がい
狼のおばば
ぎろ
中村 
中村 壱太郎
坂東 
市村 
市村 
澤村 
市村 橘太郎
河原崎 権十郎
市村 萬次郎
中村 錦之助
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奈良国立博物館  庭園 (八起庵)

2024-09-29 | お出かけ

奈良国立博物館 庭園(八起庵)

 

 

 

 

 奈良国立博物館の庭園に行き、しばし心の落ち着く時間を味わう。

 八起庵と云う、にじり口から入る茶室も設けられている。

 奈良三大(有名?)茶室ともいわれているらしい。

 茶室は好きなので、お抹茶でも頂きたい気分であったが、さにあらず。

 京都東福寺の茶室などにでもで向かいたくなった。

 

 

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Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

2024-09-28 | クラッシック音楽

Dvořák: 8. Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Manfred Honeck

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

 

 アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(チェコ語: Antonín Leopold Dvořák [ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk] 発音

 

 1841年9月8日 - 1904年5月1日)は後期ロマン派に位置するチェコの作曲家。

 

 チェコ国民楽派を代表する作曲家である。

 

 チェコ語の発音により近い

   「ドヴォルジャーク」

   「ドヴォジャーク」

という表記も用いられている

 

 

 ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となった。

 

 スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。

 

 

 その後、アメリカに渡って音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。  

 

 代表作に、

   弦楽セレナード、

   管楽セレナード、

   ピアノ五重奏曲第2番、

   交響曲第7番、

   交響曲第8番、

   交響曲第9番『新世界より』、

   スラヴ舞曲集、

   弦楽四重奏曲第12番

などがある。  

 

 

生涯 幼少期  

 ドヴォルザークの生家 ドヴォルザークは、プラハの北約30kmほど、北ボヘミア、ロプコヴィッツ家の本拠地のひとつであるネラホゼヴェスに生まれた。

 生家は肉屋と宿屋を営んでいた。

 父親はツィターの名手として村では評判で、簡単な舞曲を作曲して演奏することもあった。

 また、近所の町でやはり肉屋を経営していた伯父もトランペットの名手として知られていた。

 

 6歳で小学校に通い始めるが校長のヨゼフ・シュピッツにヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。

 

 8歳で村の教会の聖歌隊員

 

 9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者

 音楽的才能を見せ始める。

 

 父親は長男であったアントニンには肉屋を継がせるつもりであったため、小学校を中退させ、故郷から30kmほど離れた母方の伯父が住むズロニツェ(ドイツ語版)という町へ肉屋の修業に行かせた。

 

 ところが、この町の職業専門学校の校長で、ドイツ語を教えていた(当時、肉屋の技術修得書を得るためにはドイツ語が必修であった)アントニン・リーマンは、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行った、典型的なカントルというべき人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

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『京都市交響楽団、第693回定期演奏会』 京都コンサートホール  指揮:阪 哲朗  ドヴォルザーク ブラームス

2024-09-27 | 音楽Live
 
『京都市交響楽団、第693回定期演奏会』 京都コンサートホール  指揮:阪 哲朗 ドヴォルザーク ブラームス
 
 
 
 
『京都市交響楽団、第693回定期演奏会』に行く。
 
 京都市交響楽団は子供の頃学校から二度ばかり連れていただいたことがある。
 
 また、とある方が毎回定期演奏会の楽しい様子を教えて下さり、そういえばたのしかったなと思いだし、第693回定期演奏会を聴きに行ってみた。
 
 案の定、ドヴォルザークの交響曲 第8番 ト長調 作品88と、ハンガリー舞曲集の第5番にはまり、音楽が頭から離れない。
 
 帰宅後、その日のうちに京都市交響楽団の定期演奏会のチケットを二枚、購入した。
 
 次の日は南座に行き新歌舞伎を見たが、あらあら!音楽が頭にこびりつき、芝居どころではなかった(笑)
 
 これが古典歌舞伎なら、もう少し結果が変わったのかもしれないとほくそえむ。
 
 いずれにせよ、楽しいと思える時間をつなぎ合わせることができるのは幸せなことである。
 
 
 
 
ドヴォルザーク:交響曲 第8番 ト長調 作品88  

ブラームス  :ハンガリー舞曲集から、
        第1番、第4番、第5番、第6番、第7番、第10番 

ドヴォルザーク:チェコ組曲 ニ長調       
   
 アンコール曲:ブラームス ハンガリー舞曲第21番
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ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 6 交響曲第1番ハ短調作品68 第1楽章 カラヤン

2024-09-27 | クラッシック音楽

ブラームス 交響曲第1番ハ短調作品68 第1楽章 カラヤン

 

 

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 6 交響曲第1番ハ短調作品68 第1楽章 カラヤン

 

 

 ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 

 生誕 1833年5月7日

 出身地 ハンブルク( ドイツ連邦)

 死没 1897年4月3日(63歳没)

 オーストリア=ハンガリー帝国

 ウィーン ジャンル

 ロマン派音楽

 1843年 - 1897年

 

代表的な作品  

 ブラームスによるハンガリー舞曲 Hungarian Dance no.1 Duration: 57 seconds.0:57 1889年12月2日録音。

 

 ブラームスの主要な管弦楽作品には、4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲、『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』(作品77)などがある。

 これらの作品は世界各地のオーケストラで、現在でも主要な演奏レパートリーとして取り上げられている。

 ただし、19世紀の音楽を特徴付ける交響詩には手を染めず、また、最後の10年間は管弦楽作品を全く作曲しなかった。  

 

 管弦楽作品以外では室内楽曲、器楽曲、声楽曲を数多く作曲しており、これらのジャンルがブラームスの作品の大半を占めている。

 最大の声楽の作曲家の一人であるという意見もあり、合唱と管弦楽のための『ドイツ・レクイエム ヘ長調』(作品45)をはじめ、300曲以上の歌曲や合唱曲を書いている。

 

 一方、ブルックナーと同様にオペラを書くことはなかった。  

 

 変奏曲の大家でもあり、管弦楽曲『ハイドンの主題による変奏曲 変ロ長調』(作品56a)、ピアノ独奏曲『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 変ロ長調』(作品24)、『パガニーニの主題による変奏曲 イ短調』(作品35)などがある。

 

 

 

 交響曲

交響曲第1番 ハ短調 作品68

交響曲第2番 ニ長調 作品73

交響曲第3番 ヘ長調 作品90

交響曲第4番 ホ短調 作品98

管弦楽曲 セレナード第1番

ニ長調 作品11

セレナード第2番 イ長調 作品16

 

ハイドンの主題による変奏曲

変ロ長調 作品56a

大学祝典序曲 ハ短調 作品80

悲劇的序曲 ニ短調 作品81

 

 

協奏曲

ピアノ協奏曲第1番

ニ短調 作品15

ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77

ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102

 

 

室内楽曲

ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 作品8

ピアノ三重奏曲第2番 ハ長調 作品87

ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 作品101

弦楽六重奏曲第1番 変ロ長調 作品18

弦楽六重奏曲第2番 ト長調 作品36

ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 作品25

ピアノ四重奏曲第2番 イ長調 作品26

ピアノ四重奏曲第3番 ハ短調 作品60

ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34

チェロソナタ第1番 ホ短調 作品38

チェロソナタ第2番 ヘ長調 作品99

ホルン三重奏曲 変ホ長調 作品40

弦楽四重奏曲第1番 ハ短調 作品51-1

弦楽四重奏曲第2番 イ短調 作品51-2

弦楽四重奏曲第3番 変ロ長調 作品67

ヴァイオリンソナタ第1番 ト長調『雨の歌』 作品78

 愛称の由来は、第3楽章に自作の歌曲『雨の歌』を引用していることにちなむ。

 

ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調 作品100

ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調 作品108

ピアノとヴァイオリンのためのスケルツォ ハ短調 WoO 2 ロベルト・シューマンとアルベルト・ディートリヒとともに作曲した『F.A.E.ソナタ』の第3楽章。

弦楽五重奏曲第1番 ヘ長調 作品88

弦楽五重奏曲第2番 ト長調 作品111

クラリネット三重奏曲 イ短調 作品114

クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115

クラリネットソナタ第1番 ヘ短調 作品120-1

クラリネットソナタ第2番 変ホ長調 作品120-2

ピアノ独奏曲 ピアノソナタ第1番 ハ長調 作品1

ピアノソナタ第2番 嬰ヘ短調 作品2

ピアノソナタ第3番 ヘ短調 作品5

 

シューマンの主題による変奏曲 嬰ヘ短調 作品9 4つのバラード 作品10 自作主題による変奏曲 ニ長調 作品21-1

ハンガリーの歌の主題による変奏曲 ニ長調 作品21-2

ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 変ロ長調 作品24

パガニーニの主題による変奏曲 イ短調 作品35

8つの小品 作品76 2つのラプソディ 作品79

7つの幻想曲 作品116 3つの間奏曲 作品117

6つの小品 作品118

4つの小品 作品119

ピアノ連弾曲 ワルツ集 作品39

 

ハンガリー舞曲集 WoO 1(全4集、21曲)

 作品番号を付けず、あくまでも「編曲」として出版された。

 声楽曲 合唱曲 ブラームスは一時デトモルトで女声合唱団の指揮者をしていたことなどもあって、合唱曲を数多く作曲している。  

 

ドイツ・レクイエム ヘ長調 作品45 一般的なレクイエムの祈祷文ではなく、ルターによる旧約聖書および新約聖書のドイツ語訳から編集された。

カンタータ『リナルド』 作品50 アルト・ラプソディ ハ短調 作品53 勝利の歌(Triumphlied) 作品55

運命の歌(Schicksalslied) 作品54

運命の女神の歌(Gesang der Parzen) 作品89

哀悼歌(Nänie) 作品82

埋葬(葬送)の歌(Begräbnisgesang) 作品13

2つのモテット 作品29 2つのモテット 作品74

3つのモテット 作品110

聖歌 作品30

 

 

歌曲

 ブラームスは生涯におよそ300の歌曲を残している。

 以下はそのごく一部である。  

 

永遠の愛(Von ewiger Liebe) 作品43-1

五月の夜(Die Mainacht) 作品43-2

子守歌(Wiegenlied) 作品49-4

甲斐なきセレナーデ (Vergebliches Ständchen) 作品84-4

野の寂寥(Feldeinsamkeit) 作品86-2

私のまどろみはいよいよ浅く(Immer leiser wird mein Schlummer) 作品105-2

歌曲集『ティークのマゲローネによるロマンス』 作品33

4つの厳粛な歌 作品121

重唱曲 愛の歌 作品52

新しい愛の歌 作品65

4つの四重唱曲 作品92

ジプシーの歌(Zigeunerlieder) 作品103

(Wikipedia)

 

シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

誰しもが聴いたことがあるであろう、ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5

 
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『狐猿随筆』  柳田國男  岩波書店(2011/03発売) /バッハ Bach: 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長/

2024-09-26 | 民俗学、柳田國男、赤松啓介、宮田登、折口信夫

バッハ Bach: 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 Cello Suite No. 1 BWV1007/パブロ・カザルス Pablo Casals 1938/レコード/高音質

 

『狐猿随筆』  柳田國男  岩波書店(2011/03発売)

259p

 

 

松島の狐 36頁

早稲酒や稲荷(とうか)呼び出す姥がもと

(『焦尾琴(しょうびんきん)』)

 

狐の飛脚(80頁)

狐のすしは七桶ながら

八桶に足らぬとて狐狩するよ

 

狐を喰ったらうまかった

まんだ歯ぐきに挟まってる

 

坂川彦左衛門(85-86)

寺沢別当、ばか別当

ひっぱり炙りの大名人

ゴクワン、ゴクワン

 

坂川彦左衛門(86)

新井田のしょっぱこ爺やい

 

坂川彦左衛門(87)

長右衛門のけつ炙り

長右衛門のけつあぶり

 

 久しぶりに、柳田國男氏の書物を読む。

 割合に気楽に書かれている本書には、遊び歌(?)が多く収められている。

 著者は思い出したように書かれている部分もあり、

【関西にもあったが、思い出せない】

などと記されており、本書もまた、柳田氏の一面がうかがえる感じがたまらなく魅力的であった。

 

 

 

内容(データーベース)

 はなれ猿に送り狼、狐の飛脚、化ける猫―動物たちは人間の生活と感情のなかでどのような位置を占めてきたのか。

 物語・伝承・記録を織り交ぜながら、飼い犬の挙動や庭のどら猫一族まで、「小さな真実」をめぐる考察は自由に架橋する。

 

 目次(データーベース)

 猿の皮  松島の狐 狐飛脚の話  坂川彦左衛門  サン・セバスチャン  対州の猪 猫の島  どら猫観察記  旅二題  モリの実験  狼のゆくえ  狼史雑話

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ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 5 / Hungarian Dance

2024-09-26 | クラッシック音楽

Brahms:Hungarian Dance No.1 [Daniel Barenboim]

 

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 5 Hungarian Dance

 

 

 ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 

 生誕 1833年5月7日

 出身地 ハンブルク( ドイツ連邦)

 死没 1897年4月3日(63歳没)

 オーストリア=ハンガリー帝国

 ウィーン ジャンル

 ロマン派音楽

 1843年 - 1897年

 

 しかし彼は決心を守ることが出来なかった。

 1891年にクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻したブラームスは、

  『クラリネット三重奏曲 イ短調』(作品114)、

  『クラリネット五重奏曲 ロ短調』(作品115、1891年)、

  2つの『クラリネットソナタ(ヴィオラソナタ)』(作品120、1894年)を書き上げた。

 そして

  『7つの幻想曲』(作品116、1891年)から

  『4つの小品』(作品119、1892年)までの4つのピアノ小品集、

  『4つの厳粛な歌』(作品121、1896年)

などの傑作を生み出した。

 

 これらの作品は、晩年の寂寥と宗教的境地に満ちていると評されている・

 

 また、1890年ごろには琴の演奏も聞いており、当時出版された日本の民謡集の楽譜に書き込みが残されている。

 

 1896年5月20日に生涯親交を保ち続けたクララ・シューマンが死去したのちブラームスの体調も急速に悪化していき、翌1897年4月3日、肝臓癌によりウィーンで逝去した。

 

 63歳没。

 

 1897年4月6日、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにある、ルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派のルター派シュタット教会で葬儀が行われた。

 遺体はウィーン中央墓地に埋葬された。

 

 ハンブルクの生家は長く残っていたが、1943年7月のハンブルク空襲で焼失し、現在は記念碑がある。

 

  ブラームスに対する影響 大部分のロマン派の作曲家と同様、ブラームスは自身の『交響曲第1番』に見られるようにベートーヴェンを崇拝していた。  

 また古典派の作曲家モーツァルトとハイドンも敬愛していた。

 

 彼らの作品の第一版と自筆稿(特に有名なのがハイドンの『太陽四重奏曲』、モーツァルトの『交響曲第40番』)を集め、そのうえ演奏用の版を編集した。

 

 古典派への愛着はジャンルの選択においても現れている。

 彼の手によるソナタ、交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、ソナタ形式の楽章を作曲した。

 特に、管弦楽曲では中重低音域の楽器を偏重し、変奏曲などの複雑な手法を用いたため晦渋と評されることも多い。

 

 一般にブラームスはロマン派の作曲家の中で最も古典派に近いと考えられており、「新古典派」と呼ばれることもある。

 

  さらにはそれ以前のバロック音楽にも多大な関心を払っていた。

 とりわけヨハン・ゼバスティアン・バッハに心酔しており、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究した。

 

 その成果として最も有名なものが

  『交響曲第4番 ホ短調』

の終楽章に置かれた「パッサカリア」で、そのテーマはバッハのカンタータ第150番の主題を応用したものである。

 

 また、バッハ研究家フィリップ・シュピッタ(ドイツ語版)とも親交が深かった。

 

 また、

   歌曲『逆らえないもの』(作品72-5、ゲーテ作詞)

では、冒頭のピアノパートにドメニコ・スカルラッティの『ソナタ ニ長調 K. 223』を引用している。  

 

 全く異なる影響は 民族音楽だった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、また彼のオリジナルの歌曲も多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。

 

 また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、レメーニから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、『ピアノ四重奏曲第1番 ト短調』(作品25)などにその語法を取り込んでいる。

(Wikipedia)

 

誰しもが聴いたことがあるであろう、ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5

シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

 

 
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ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 4 ブラームス/ハンガリー舞曲 第6番

2024-09-23 | クラッシック音楽

写真はイラン 

ペルセポリスから車で小一時間ぐらいに位置する 

石切り場のある村。

此処から、ペルセポリスの大きな石が運ばれたといわれている。

 

ブラームス/ハンガリー舞曲 第6番 Brahms: Hungarian Dance No.6

 

 

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 4 ブラームス/ハンガリー舞曲 第6番

 

 

 ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 

 生誕 1833年5月7日

 出身地 ハンブルク( ドイツ連邦)

 死没 1897年4月3日(63歳没)

 オーストリア=ハンガリー帝国

 ウィーン ジャンル

 ロマン派音楽

 1843年 - 1897年

 

 1862年にウィーンを初めて訪れた後、ブラームスはウィーン・ジングアカデミー(ドイツ語版、英語版)の指揮者としての招聘を受けウィーンに居着くことになる。

 1869年までには活動の本拠地をウィーンに移すことを決め、1871年にカールスガッセ4番地へと移り住んだ。

 この時期の間にブラームスは1868年に完成した『ドイツ・レクイエム』などの作品で高い評価を確立した。

 

 1865年には母が、1872年には父が死去している。

 ウィーン移住からおよそ10年後の1876年に、19年の歳月をかけた『交響曲第1番 ハ短調』(作品68)を完成させた。

 この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲のようだ」と語らしめた。

 

 他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年には『第2番 ニ長調』(作品73)が、1883年に『第3番 ヘ長調』(作品90)が、そして1885年に最後の『第4番 ホ短調』(作品98)が、それぞれ発表された。  

 

 ブラームスは1878年から1893年までの間に8回イタリアを訪問し、気持ちの良い地方を探して夏の間に作曲した。

 

 1889年12月2日、トーマス・エジソンの代理人の依頼で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ『とんぼ』を蓄音機に録音した。

 これは史上初の録音(レコーディング)とされている。

 またこのときのピアノ演奏で、初めて自身の老いを自覚したと言われる。

 

 翌1890年、57歳になり意欲の衰えを感じたブラームスは作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。

(Wikipedia)

 

誰しもが聴いたことがあるであろう、ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5

シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

 

 
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誰しもが聴いたことがあるであろう、ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5

2024-09-23 | クラッシック音楽

ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5

 

 この曲は聞く機会が多い。

 おそらくどなたも聴き覚えがあるだろうと思う。

 

 わくわくする、、、、、

 

 

 

 

誰しもが聞いたことがある、ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5

シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

 

 
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ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 3 ハンガリー舞曲より第4番・第5番(J ブラームス)

2024-09-23 | クラッシック音楽

ハンガリー舞曲より第4番・第5番(J ブラームス)

 

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 3 ハンガリー舞曲より第4番・第5番(J ブラームス)

 

 

 ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 

 生誕 1833年5月7日

 出身地 ハンブルク( ドイツ連邦)

 死没 1897年4月3日(63歳没)

 オーストリア=ハンガリー帝国

 ウィーン ジャンル

 ロマン派音楽

 1843年 - 1897年

 マルクスゼンに師事し始めたころからブラームスは作曲を始めたものの、この時期の作品は厳しい自己批判のため破棄され現存しない

(現存する最古の曲は、1853年にゲッティンゲンの音楽監督のアルノルト・ヴェーナーの音楽帳に記入したピアノ曲「アルバムのページ Albumblatt」である[9])。

 

 1853年にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。

 この旅行で2人はヨーゼフ・ヨアヒムに会いに行き、ヨアヒムはブラームスの才能を称賛した。

 ブラームスもヨアヒムに敬意を抱き、2人の親交は以後も長年にわたり続いた。

 

 次いでヨアヒムの勧めで2人はフランツ・リストに会いにヴァイマールに行ったが、リストとはそれほどうまくいかなかった。

 ここでブラームスとレメーニは仲たがいを起こし、ブラームスはヨアヒムの元に戻った。

 

 ヨアヒムら友人たちがロベルト・シューマンに会うことを強く勧めたため、9月30日にブラームスはデュッセルドルフのシューマン邸を訪ねた。

  この出会いは両者にとって幸福なものだった。

 

 シューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け、『新しい道』と題する評論を『新音楽時報』に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、ブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。

 

 ブラームスもまたシューマンを強く尊敬し、シューマンの没後もその敬意は変わらなかった。

 

 またこの時、ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララと知り合い、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。

 しかしこの頃すでにシューマンは精神疾患に悩まされており、1854年2月には投身自殺未遂を起こしてボン近郊の療養施設に収容された。

 

 ブラームスはこれを聞くとデュッセルドルフに駆けつけ、シューマン家の家政を手伝い一家を助けた。

 こうしたなかでブラームスとクララの距離は近づき、1855年ごろのクララへの手紙の中では彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあった。

 

 しかしブラームスはシューマンも強く尊敬しており、1856年にシューマンが死去したのちも彼女と結婚することはなかった。

 とはいえシューマン一家とは生涯にわたり親交を続けた。

 

 1857年にはリッペ=デトモルト侯国に音楽家として招かれ、1859年まで3年間にわたり秋から年末にかけてデトモルトの侯国宮廷で勤務した。

 

 また1858年にはアガーテ・フォン・ジーボルト(フィンランド語  版)(Agathe von Siebold いわゆる「シーボルト事件」で著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従弟の子に当たる)と婚約しながら、翌1859年には「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしている。

ウィキペディア(Wikipedia)

 

 
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『絵入 好色一代男』 22   巻四 世之介  三十一歳  替ったものは男傾城 江戸屋敷方女中の事   (三十一歳の話は、やたら 話し言葉が多い。)

2024-09-23 | 井原西鶴

『絵入 好色一代男』 22   巻四 世之介  三十一歳  替ったものは男傾城 江戸屋敷方女中の事   (三十一歳の話は、やたら 話し言葉が多い。)




『絵入 好色一代男』 四巻




巻四 世之介  三十一歳  

    替ったものは男傾城 

    江戸屋敷方女中の事

 





巻四 世之介  三十一歳 

     替ったものは男傾城

     江戸屋敷方女中の事

 

 

 

 

 三十一歳の話は、やたら 話し言葉が多い。

 

 

 思案橋(大坂) : 荒砥屋孫兵衛可心, 天和2[1682]


 絵入  好色一代男  井原西鶴
 天和二壬戌年陽月中旬 
 大阪思案橋 孫兵衞可心板


 岩波日本古典文学大系





『絵入 好色一代男』 1   巻一 世之介 七歳   「けした所が恋はじめ」「こしもとに心あること」

『絵入 好色一代男』 2   巻一 世之介 八歳   「はづかしながら、文言葉」「おもひは山吹の事」

『絵入 好色一代男』 3   巻一 世之介 九歳   「人にハ見せぬところ」「ぎやうずいよりぬきみ事」    『五月四日』『起上り小法師』

『絵入 好色一代男』 4   巻一 世之介 十歳   「袖の時雨ハかくるが事」「はや念者ぐるひの事」

『絵入 好色一代男』 5   巻一 世之介 十一歳  「たづねてきくなどちぎり」「伏見しもくまちの事」

『絵入 好色一代男』 6   巻一 世之介 十二歳  「ぼんのうの垢かき」「兵庫風呂屋者の事」

『絵入 好色一代男』 7   巻一読了 世之介 十三歳  「わかきは当座はらひ」「八坂茶屋の事」



二巻

 

『絵入 好色一代男』 8   巻二目録 世之介 十四歳〜二十歳

『絵入 好色一代男』 9   巻二 世之介 十四歳  『はにふの寝道具』『仁王堂飛子宿の事』

『絵入 好色一代男』 10   巻二 世之介 十五歳   『髪きりても捨てられぬ世』『後家なびける事』 

『絵入 好色一代男』 11   巻二 世之介 十六歳   『女はおもハくの外』『京河原町の事』

『絵入 好色一代男』 12   巻二 世之介 十七歳   『誓紙のうるし判』『奈良木辻町の事』

『絵入 好色一代男』 13   巻二 世之介 十八歳   『旅のできこゝろ』『道中人とめの事』
『絵入 好色一代男』 14   巻二 世之介 十九歳 二十歳

三巻
『絵入 好色一代男』 15   巻三 世之介  二十一歳~二十三歳

『絵入 好色一代男』 16   巻三 世之介  二十四歳~二十五歳

『絵入 好色一代男』 17   巻三 世之介  二十六歳   木綿布子もかりの世 坂田の濱女惣嫁(そうか)の身ぶりの事

『絵入 好色一代男』 18   巻三読了 世之介  二十七歳   口舌の事 ふれ  縣御子 かまばらひの事


四巻
『絵入 好色一代男』 19   巻四 世之介  二十八歳   因果の関守 信州追分遊女の事

『絵入 好色一代男』 20   巻四 世之介  二十九歳 形見の水櫛 女郎に爪商の事 「上方の傾城町へ。毎年(まいねん)忍びて、売にまかる」と語りぬ、

『絵入 好色一代男』 21  巻四 世之介  三十歳世之介四 人の女に書かせたる起請、さんざんに切りやぶりて有ける。仮にも書かすまい物ハ、これぞかし

『絵入 好色一代男』 22   巻四 世之介  三十一歳  替ったものは男傾城 江戸屋敷方女中の事   (三十一歳の話は、やたら 話し言葉が多い。)

 

 

 

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シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

2024-09-22 | クラッシック音楽

写真はイランのカシャーン

 

シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

 

 

『ハンガリー舞曲集』(ハンガリーぶきょくしゅう、ドイツ語: Ungarische Tänze)WoO.1 は、ヨハネス・ブラームスがハンガリーのジプシー(ロマ)音楽に基づいて編曲した舞曲集。

 オーケストラでの演奏が広く知られているが、最初はピアノ連弾のために書かれ、爆発的な人気を博した。

 

 全部で21曲あり、それぞれの長さは1分程度のものから4分程度のものまでとまちまちである。中でも、管弦楽用に他者によって再編曲された第5番がとりわけ有名である(曲自体はケーレル・ベーラ(英語版)のチャールダーシュ "Bártfai emlék" による)。

 

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 1

ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 2 ピアノ四重奏曲第1番 ト短調

シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人

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京都府立植物園の銅像

2024-09-22 | 美術・文様・展示物

京都府立植物園の銅像

 

 この他にも、京都府立植物園には銅像が多くあった。

 

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