日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

ホテルの近所にも

2017-09-14 08:49:17 | 日記
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24



志賀高原は至る所に湿原があるのが解ります。スキー場も一杯。蓮池や丸池の近くですが、湿原もスキー場があります。各池にスキー場があるのでは?



田の原湿原の様に花は多くはないですが、白樺も山野草も盛り沢山です。でも柵がしてあって、中に入れないのが残念。草でおおわれてますが、水が多いのでしょう。



292号線にそって遊歩道があるのが見えていますから、湿原が連なってるのでしょう。まだまだ見どころがあるのは解るのですが、我々の力ではね。。。

上の言葉
この言葉に続いて、砂の上に家を建てた愚かな人のことが語られています。確かに、何を土台にしているかによって、その上にあるものが左右されます。誰でも家を建てようとするとき、少しでも頑丈な土台に建てたいと願います。同様に、私たちの人生の土台をどこに置くかによって、大きく変わります。主のみ言葉、聖書の言葉を信じ、信頼し、それに従うとき、揺るがない生き方ができます。(KE)

昼下がりに

2017-09-13 13:04:10 | 日記
「人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである。」詩篇49:16-17



昼は真夏の気温ですが、夜は涼しくなり、過ごしやすくなりました。コンデジの故障もあり、なかなか撮影に行けません。間もなく彼岸花が咲きそれまで魅力のある被写体がないですね。
明日は行事があるからパチリ出来るか?



まだ志賀高原で申し訳ないです。こちらの今の気温よりも、志賀高原は低い気温でした。朝は寒かったです。8月初旬でしたが。長袖で丁度良かったですから。





渋峠やこの田の原湿原ではジャケットを着てました。今頃、紅葉の準備で草木は懸命の事でしょう。植物もすべてが一生けん命生きてます。





白樺が綺麗に並んでいます。また会いたいです。

上の言葉
人は富や財産を自分の所有としますが、それらはこの世にある間、使わせてもらっている借り物にすぎません。地上の生活が終わると、全てをここに置いて出て行くほかないのです。私たちが生きている間、楽しむようにと神様が備えてくださったものですから、残そうと考えず、感謝して喜び楽しんだらいいのです。(KE)

ドライアイ検診

2017-09-12 19:50:51 | 日記
「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。」マタイ16:3b



半年ぶりに大学病院のドライアイ検診に出かけました。教授の検診ですから、待つのが長いこと!多分教えながら診察されてるのか?診察室に入っても奥で大きな声が聞こえて来る。2時間半待って二人ですからね。以前は黄班変性で待つのが当然の経過でしたが、最近では近くの病院になって半減したので、長く待つのが苦痛になってるのか?



ドライアイは表面で瞳孔を開く薬はないので、久し振りにコンデジで町撮りが出来る、と期待ワクワクしていたのでした。何とコンデジが全く動かない!志賀高原でも少し異常を感じてたのですが、故障でした。カメラ店の方は修理に1,5~2万かかるとか。じゃ新品を買った方が良い。コンデジも必要ですからね。また物入りです。
1眼レフでは故障はなかったですが、私はよほど取り扱いが悪いのかよく故障します。
この湿気の多い時は故障が多いらしい。

待ったこと、カメラの故障で疲れました。良いカメラだったのに残念です。撮れないと思うと益々京都の風景が美しく見えます。雨の効果もありますが。

上の言葉
日本は四季折々の変化に富んだ国です。それだけに常々自然の変化によって「時」を読み取る生活が身についています。イエス様はそのように今の時を知れと勧めています。始まりのあるものはすべて終りがあります。大宇宙も、私たちの小さな人生も、終りに向かって進んでいる今の時代、どれだけの時間が残されているでしょうか。終りのときの間近きことを知り、いかに生きるべきか真剣に求めましょう。(KE)



カルバリ山より

2017-09-11 08:44:34 | 日記
互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネの福音書13章34節)

   by すずらんさん

今朝も爽やかな朝です。昨日の礼拝メッセージを思い巡らしています。

イエスが最後の晩餐で弟子達に語られた言葉ですが、これはまず教会の信徒に必要な事でしょう。だって信仰があり聖霊が働かれないと愛する事が出来ないですから。人が持ち合わせてるのは僅かです。

私があなたがたを愛したように、、、イエス様は自分が奴隷のように謙虚になって弟子達を愛されました。その様に愛しなさいと言われます。我々はその何分の1も実行できないかもしれないですが、キリストに倣うものとしてそうありたいものですが。

カルバリ山にゴルゴダがあるのか?私はよく解らないですが、十字架の処刑にイエス様は罪がないのに掛かられました。それは私達の身代わりにです。罪深い我々が本当はかからねばならないのですが、究極の愛でイエス様がかかって下さいました。極刑である十字架。
これは創造者なる父なる神のみ旨でもありました。父、子、聖霊(信じたら心に入って下さる霊)は一緒なのです。どんなに感謝しても足りない位です。



礼拝後、食事タイムです。牧師夫人がおおまか作って下さってますが、忙しい方。姉妹や息子家族と共に精を出しました。久し振りに少しですが教会食事作り。まだ私も少し出来るのだと嬉しくなります。大勢で食べるのは美味しい。普通のお昼の食事ですが、決して贅沢ではありません。

牧師が礼拝の最後に派遣の祝福、という祈りをされました。これは社会は荒波ですが、御言葉により打ち勝つようにでしょう。

礼拝メッセージが楽しみ

2017-09-10 08:02:49 | 日記
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」ローマ12:1bc



今日は主日礼拝の日。世界中のキリスト教会が礼拝を持つ日です。この爽やかな朝、メッセージを楽しみに待つ自分がいます。教会生活の長い私がメッセージを待つという気持ちになったのは20年ぶりか?こういった気持になれる最近の自分を喜んでいます。



今の牧師先生は大変ご苦労されて来た方。その苦労が皆メッセージに繁栄され、人々の心に沁み渡るのです。それにより心が元気になり、1週間嫌な事でもプラスに変えられ、涙が出る程、イエス様!と祈る事もあります。



またイエス様と牧師夫妻がこんな私でもどこかで心にかけて下さっている、と実感できるのです。随分長い間、イエス様にはいつも身近で支えられているとは思って生きてきましたが、この世の牧師夫妻に心にかけて頂いてるとは感じられなかったですから嬉しいですね。別にチヤホヤでは全くなくて、何となく感じられるのです。感謝です。



人間の愛は微々たるものですが、神と人に仕え様とする気持ちは伝わるものです。そういった気持になれる人は僅かですが、私は今そんな環境にいる事を赦されている。これも主の導きでした。



腰骨が狭くなり軟骨が骨盤まで出ている私ですが、接骨院の先生に対応を教えて頂きました。グンとうつ伏せになり、頭を伏せて、腰骨が伸びる姿勢に1日に何度かしたらよいそうです。

上の言葉
そもそも礼拝とはなんでしょうか。それは神様が全てのものの主であり、支配者であり、私達は神様のものであることを告白することです。「ささげなさい」と言われますが、そもそも自分のものではありません。自分の体も含めて、家庭も、仕事も、家族も、ことごとく神様の所有です。そのことを徹底して認めようではありませんか。(KE)